断捨離から「アカシャ離」へ

修行?

人がこの世に生まれてくる目的は何か?
この本質的な問いに、スピリチュアルな世界観では、修行だというのが多くの見解でしょう。
ん~、この世は修行なのか?
「♪人生楽ありゃ苦もあるさ~」というように、楽なばかりじゃ修行にならない。
だから、この世には必ず波風、ハードルがあるんだと。
「玉磨かざれば光なし」ってわけですね。

まさにこの玉こそ魂。
原石の魂をゴシゴシ磨いて、光り輝かせるために、みずから地上に降りてくるんだと。
三次元のこの物質界は、粗い目のヤスリのようなもので、そのなかで魂は揉まれて
練磨されていくんだとか。
しかも、それは一回きりではなく、輪廻転生を繰り返して、魂のグレードを高めていくといいます。
だから、人生には必ずついてくる辛苦も、練磨のためのガマンのしどころなんだと思えば、
忍耐の足しになるでしょう。

 

生きているだけで素晴らしい?

まあ、もちろん、ただこの世に生きていることだけで素晴らしいことなんだという見方もあります。
この世に生を受けただけで奇跡ではないか、自然を眺め、星空を眺め、旬の食を味わい、
人情の機微に触れ、家族を愛して平々凡々と年を重ねていく。ありがたやありがたや。
みな、命あってこその物種だと。悉皆成仏、極楽極楽――。

しかし、日々の事件や事故で、人の命が簡単に抹殺されたり、あるいは長い虐待の末に
惨殺されたりするような惨劇や、若くして難病で苦しむ姿を見聞きするたびに、
その考えは揺らぎます。
だいたい、生きているだけで素晴らし、ありがたい、なんていうのは、それはそれで究極の
プラス思考のようであり、侘び寂びの枯れた味わいもあるのですが、どうしてそんなふうに
断定できるのか不思議です。
比較するならわかるのですが。
たとえば、「おれも一回死んだけど、やっぱりねぇ、あの世より、こっちのほうがいいねぇ。
人間、肉体もってなんぼのもんさ」なんて、しみじみといわれでもしたら。
でも、フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』に、「♪天国よいとこ一度はおいで~
酒はうまいしねえちゃんはきれいだ」なんてありましたが。

 

この世は倒錯した夢である

さて、修行というのはどうでしょう?
やはりそれも、人はみな天と地を往来しているという、その魂の記憶がないからわからない。
前回、バシャールの話題をしました。
ちょっと引用します。

地球人は宇宙のなかでも特別、あれこれと自分たちに制約を課すのが好きな生き物
だということで、宇宙人のあいだで「『制限の帝王』と呼ばれている」という話があって、
大いに笑ったものです。
たしかにそうでしょう。
筋肉を強化するための養成ギブスを四六時中装着しているうちに、筋肉強化の本来の
目的を忘れて、緊縛される快感に目覚めてしまったようなものです。
まあ、本当は倒錯のヘンタイ、とでもいいたかったのかもしれませんが。

 

そう、人間はどうも倒錯しちゃっているんですね。
ただ、人間は目的のための細々とした作業も、その作業自体を楽しめるような性向があります。
大根の皮むき何年とかいう料理人の下積みでも、その皮むき自体を楽しんでしまう。
いいか悪いかは別として。それは宇宙広しといえども、人間だけの特技かもしれません。

般若心経にこういう言葉があります。
【遠離一切顛倒夢想】
誤った夢想から離脱しろ。そういうのです。
――この世は、けっして実在ではない。それを本物だと錯覚して人間は生きている。
それが大いなる迷いであり、無知の根源である。
とにかく、その錯覚妄想から抜けださなければ始まらないのだ、と。

というわけで、この3Dの現実世界はただの夢想であって、この錯誤から離脱しなくちゃいけません。
この説には私も賛成です。
ただし、賛成といっても、この経典の作者ほど、シャカリキな現実否定派ではありません。

 

倒錯もまた楽しからずや

物質的、肉体的な快楽は、快楽として楽しんでもいいのです。
たとえ倒錯でも、それを楽しんでいるという自覚があればそれでいい。
SMなんかの性倒錯も、当事者どうしが楽しんでいるのならそれでいい。
でもそこに、我を忘れて、どっぷりとのめり込んじゃダメなんですね。
それが落とし穴になります。

たえず、これはシミュレーションゲームなんだと自覚して、そのゲームに参加している自分を
俯瞰して眺めていなければいけません。
そうそう、私はこの世を一種の障害物競走、シミュレーションゲームだと思っているんです。
そう思えば気が楽です。

ペンギンが水中から陸へあがるとき、水中からビュン、と勢いよく飛び出して、直立したままストン、
と両足で着地します。
あの小気味のいいこと!
ざっとひとっ風呂浴びてきて、ヒョイと手ぬぐいを肩に、涼しげな顔で去っていく。そんな感じ。
いなせですね。
立つ鳥跡を濁さず、ならず「立つペンギン跡を濁さず」。
そんなふうに、この物質界のこの世を泳ぎ回って、微塵の後腐れも執着もなく、さっとまた帰天する。
そんなイメージがいいかと思っています。

で、「帰(けえ)ったぜ」と、天の女房に、涼しい顔で肩の手ぬぐいをヒョイ、と放り投げるんです。
まあ、そんな女房がいるのかどうかはわかりませんが。
あくまでこれは個人的な見解ですけどね。

 

この世は飴細工と知ることが善

この世はけっして強固で、永遠不変の実在ではないんですね。
まして、物質的な財をなすために、汲々とする場でもないんです。
価値があるのは、この世が「一切顛倒夢想」のスクリーンであって、そのスクリーンのなかで精いっぱい
自作自演して、適度に汗をかき、肩に手ぬぐいをヒョイとかけて出てくることなのではないか、
そう思います。

大事なのは、成功するかどうか、願望を達成するかどうかではなく、この世はやわらかい飴細工なんだと
知って、魂を遊ばせることです。

「え? ココは成功法を教えるブログじゃなかったの?」
とツッコミが入りそうですが、あくまでそれは究極の話。
ゲームとして楽しむ俯瞰した意識があるなら、いくらでも願望を達成して、物質界の帝王になってもいいでしょう。
魂がそれで自由に遊べるなら。

その助けとなるのが、アカシャエネルギーの活用なわけです。

 

この世を実在と思えば悪

悪行が悪いのは、自分だけの利益を求めて、人を傷つけたり、足を引っ張ったりすること自体ではなく、
あくまでそのスクリーンを実在だと思い込んでしまっていることにあるのです。
それが魂の自由度を奪います。

同じく、善行が善いのは、人のためになる行いそれ自体ではなく、自分を客観的に眺めている目があり、
この世がゲームだということに気づいているところにあります。
そこにおいて、善いのです。

この世は、それぞれの潜在意識の共同幻想で成り立っています。
共通したスクリーンで、それぞれの夢を投射し、張り合っています。
おれだけがうまくいけばいい、という利己的な考えは、その共同幻想のスクリーンのなかで、
やわらかい組織のなかにできたシコリのようなものなんでしょう。
それがスクリーンを歪めてしまう。だから悪いのです。

 

断捨離から「アカシャ離」へ

近頃は「断捨離」というものがはやっておりまして、余計なものは、愛着があってもどんどん捨てなさい、
そうすれば身も心もスッキリして自由になります、というわけです。
賛成ですね。それも一つの成功法。
出せば入ってくる、というのは引き寄せの法則でもあります。

豊かさは貯めこむことではなく、流通させることなんです。
貯金額ではなく、キャッシュフロー。動かせるお金がたくさんあることです。

さらに、モノを捨てるだけではなく、わが「アカシャアーツ」では、潜在意識から魂のアカまでの断捨離
(クリーニング)をカバーします。
魂のアカがよく落ちる潜在…、じゃなくて洗剤があるんです。

だからそれを「垢捨(あかしゃ)エネルギー」というんですね。

なーんて、ちょっとつまらないダジャレでオチをつけてみました。

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