笑いは、おはらい

福の神は陽気がお好き

ではこの辺で、「アカシャエネルギーとは何か?」というお話をしたいところなんですが、
それはもう少しあとにして、雑談を続けます。

かしこまって成功法なんかに取り組む前に、ふだんからできる心構えがあるんです。
けっこう、それが遠回りのようで近道だったりします。
昔から「笑う門には福来る」といいますが、あれは本当です。
こじつけていえば、アカシャエネルギーは、陽気な波動に感応して邪気を払い、
福を招く、といったところでしょうか。招福万来。
福の神は陰気を嫌います。
陰気が好きなのは貧乏神です。
これが仮に真理ではないとしても、湿気の好きなカビやダンゴムシならともかく、
ジメジメと恨んで泣いて、愚痴をいって暮らすより、明るく笑って暮らすほうがいいじゃないですか。
今回はその笑いの効能についてのお話です。

どっとはらい

「どっとはらい」という言葉があります。
物語の最後に「おしまい」とか「めでたしめでたし」といいますが、あの東北版です。
どっとはらいのほかにも、秋田では「とっぴんぱらり」があります。
地方によって、「とっぴんぱらりのぷぅ」、「とっぴんぱらりすったごだっごのぴい」、
「とっぴんぱらりさんしょの実」などとバリエーションがあるようです。

「すったごだっごのぴい」(笑)

8年前の某局に、『どんど晴れ』なんていう朝の連ドラがありました。
これは遠野地方の、「めでたし、めでたし」ですね。
本当にあったという怪談話を聞かされて、身も凍っていたあとで、最後にこんなおどけた
文句があったら救われます。
「すったごだっごのぴい」(笑)
まあ、いまでいえば、最後に「な~んちゃって」とでもいうようなものでしょうか。
ずいぶん前、「すったもんだがありました」なんて、CMで語っていた女優がいました。
さっき、『ヨルタモリ』で見ましたけど(ゲストの甲本ヒロトのブルースハープが素晴らしかった)。
「すったもんだがありましたが、そんなことはもう、すったごだっごのぴい」なんていう
心境だったんでしょうね。あのときのりえさんは。

笑いは空気を緩ませる

それにしても怪談話というのは、真っ昼間にしてもあまり怖くはありません。
さんさんと陽が降り注いでいるビーチなんかに霊なんていそうになくても、
深夜ともなれば、そこら中にいても不思議ではない気がするものです。
夜は怖い。

昼間には、作り話だろうと茶化して聞けても、それが深夜に聞けば、なんだか空気が
キシキシと音をたてて、目に見えない影が背後に迫ってくるような、いやぁな気配が
迫るのを感じてしまいます。

そういえば以前、深夜に鈴木光司の『リング』を読んでいて、
「うえぇ怖ぇ…」と背中がゾクゾクしてきて、なかなか面白かったんですけど、
途中で本を閉じてしまったことがあります。
夜は怖い。
そんな怪談話でも、ヒシヒシと空気が凍ってきたときに、そこで何かの拍子に誰かが
笑ったりすると、一気に場の空気の緊張が解けます。
笑いは、そんな凍えた空気をご破算にする効果があります。
いや…、大口開けて笑っていればいいのですが、体育座りで、抱えている両膝の間に
顔を埋めて、背中だけヒクヒクと動かしながら、長く笑いを引きずる髪の毛の長い女子が
いたりしたら、ちょっとそれもまた怖いですけどね。

取っ払う

山笑う、とは春の季語ですが、TVの業界用語にも、「わらう」があります。
ものをどかすとか片付けることをいうそうです。
ディレクターがADなんかに、「ちょっと、それわらって」と。
語源は不明ですが、「取っ払う」からきているという説があります。
「笑う」は、「取っ払う」です。

笑いも、笑いながら手を叩く(拍手)のも、これはお祓(はら)いではないかと思うわけです。
怪しい霊気を取っ払い、追い払うのです。
そういう力が笑いにはある。
笑いは、お祓いです。

パンドラの箱を開けたとき、あらゆる災厄が出てきたあとで、最後に「エルビス」だけが
残っていたという話があります。エルビスは、希望というのが定説になっていますが、
予兆や期待とも訳されます。そのエルビスが、「笑い」であってもいいと思うのです。

アダムとイブが楽園から追放されたときも、アダムはきっと笑いを持っていた。
手にマメを作って畑を耕しながら、それでもアダムはイブに、神さまのモノマネなんか
して笑わせていたのではないか。
「命の木の実を食べただと! まったくお前たちは、あれほど食うなといったのに!」
なんて、激昂する神さまのモノマネをしてみせるアダムに、イブは笑いながら、
「オー、マイ、ガー」
といったとかいわなかったとか。

笑いは権威の敵

笑いは、偽物を暴く常識のセンサーでもあるんですね。
笑いは、この世に生きる人間がみな持つ、オールラウンドのお守りです。
もったいぶった権威をこき下ろすのも笑いの破壊力です。

ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を原作にした同名の映画がありました。
謎を解決する修道士役のショーン・コネリーが相変わらず渋かったです。
舞台となった修道院では、笑いがご法度になっています。
やはり、神の権威を傘に着て、庶民を跪かせねばならない教皇以下の神父らにとって、
笑いは神をはじめ、その厳粛な権威をコケにする破壊力を持ちかねないということなのでしょう。

アリストテレスの笑いを肯定している本が、悪魔の書並の扱いで、修道院の奥深くに
秘蔵されているのですが、ショーン・コネリーが、その迷宮を探しまわって発掘するという話でした。
当時二十歳ぐらいの女の子と見にいったのですが、貧しい少女が若い修道士にまたがる
動物のような激しいsexシーンに、気まずくなった記憶があります。

庶民は権威を笑います。
もったいぶったものが、ちょっとしくじったりすると笑うのは人情です。
校長先生がけつまずいてコケそうになると、小学生でも笑います。

森公美子の霊体験

神を笑うくらいですから、人を怖がらせたい悪霊にとっても、笑いは敵でしょう。

芸能人というのは、霊感の強い人が多いようです。
まあ、そういう勘に鋭い人が、人気商売の芸能の世界へ入るともいえるでしょう。
スターというのは、何らかの色艶や婀娜(あだ)、妖しさを持っているもの。
舞台でオーラがあるというのは、何か過去の芸能関係の霊に憑かれているように思えなく
もありません。

オペラ歌手の森公美子は、霊体験をよくTVで語っています。
その一つに、急死した同郷の友人が、亡くなって日も浅いうちに出てきたという話があります。
なんとその友人は、霊となってこの世に現れるのは5つほど条件があるというのです。
まずは意志が強いこと。霊体となって現れるには、相当な集中力が必要なのだとか。
次に静電気がある場所が現れやすく、蛍光灯の下は好条件だとのこと。あとの条件は忘れました。
森さんが友人にお茶を飲むかと聞くと、東北弁で友人はこう答えたそうです。
「幽霊だからお茶飲まねぇ」

笑って手を叩けば柏手(かしわで)になる

独りでできるお祓いは、何より笑うことです。大声で笑うこと。
しかし、落ち込んで鬱々としているようなときには、笑うことさえできなくなります。
そんなときは、悪いものに気が同調して、邪鬼か何かに憑かれているのかもしれません。
それこそ貧乏神です。
笑えないなら、ちょっと立ち上がって、パンパンと、柏手を打つことです。
それができたら、明石家さんまのように、「こりゃええわ!」と手を叩いて笑ってみること。
それだけで、気のチャンネルが変わります。
邪気よ去れ。悪霊退散。
アホの坂田のマネをしろとはいいません、さんまぐらいならできるでしょう。
陽気のアカシャエネルギーが感応します。アカシャと握手ですね。

さてさて、話が長くなりました。では、このへんで。

とっぴんぱらりのぷぅ。