笑いの効能

笑いの2つの効能

笑いの効能は2つあるという話をしました。
1つは、物事の善し悪しを判断するリトマス試験紙になること。
「これはおかしいんじゃないか?」と、直感的に首をかしげるときに出てくる笑いです。
「常識に照らせ」というのはそういうことです。
いくら王様だからといって、裸の王様を笑わないわけにはいきません。

もう1つは、邪気払いになることです。
笑いは「陰気」を払い、「陽気」を招いて貧乏神を払います。
それだけで、陽気の福の神がやってくる場が整います。
いや、それこそが迷信だろうという人もいるでしょうが、少なくとも笑えば免疫力がアップすることは、
生理学的にも確かめられています。抗活性酸素のビタミンCぐらいの効能はあるでしょう。
お笑いはココロのビタミンC――、なんて、ずいぶんありふれたコピーですが。

笑いのバリエーション

それにしても、笑いにも色々あります。
福を招くのは、アハハ…という愉快な笑いですが、それ以外に、照れ笑いやごまかし笑いがありますし、
「冷笑」や「憫笑」などの陰気な笑いもあります。そういうのはたいがい目が笑っていません。
人を蔑む冷笑や嘲笑はよくないですね。それは悪い気なので、相手ばかりか自分を傷つけます。

人のあきれた態度や言動に、思わず出てしまう「失笑」は、物事を判断するリトマス試験紙に通じるので、
冷ややかではあるけれども、これは別に悪いものではない。
「コンチク笑」というのは笑い顔で怒っている感じでしょうか。竹中直人が昔やっていたネタですね。
無遠慮にどっと笑う「哄笑」は、いささか下品な感じがしますか。

にこやかな微笑は、花が咲いている感じでいいです。本人よりも、まわりへいい雰囲気を醸し出します。
そうやっていつも過ごしたいものです。
含み笑いというのも、きれいなお姉さんにやられると、妙なホルモンが出てきそうです。
とくに美形の艶っぽい笑みは、「にほう」という言葉がふさわしいほど、蠱惑的なフェロモンを嗅がせ
られる気がします。そんなお姉さんは、虫を引き寄せる花なんですね。
人を惹きつける本物の花は、たえず笑っているのでしょう。

破顔一笑、呵々大笑。こういうのは健康的な笑いです。
拈華微笑(ねんげみしょう)という言葉がありまして、これはお釈迦様の謎かけに、弟子の迦葉(かしょう)
一人が気づいたという故事が由来で、以心伝心の笑いです。
おかしくて、くつくつ笑うというのも悪くはないです。
腹がよじれる、という表現がありますが、あれくらい大笑いすると、ほんとに何か爽快感があります。
鬱憤が晴れるというか。なんらかの健康ホルモンが出るからでしょう。
生理学的には、性的な快感と近いのかもしれません。

「生の」明るさ

某紙のコラム『ことばの食感』(中村明)に、こんな話がありました。

 里見弴の「椿」はこんな話だ。二十歳の娘と若い叔母が寝床を並べて寝かかっているとき、
近くでパサッという音がした。何の音か不明で二人とも不気味に思う。やがて、それが床の間の
椿の散った音とわかる。正体が知れてみると、怖がっていたのがおかしくなる。だが、夜も更けて
いて周囲の家もしーんと静まっており、大声で笑うわけにはいかない。堪らず漏らした笑いが
声にならずに波紋のように広がっていくようすを、作者は「笑いだした。笑う、笑う」、
「可笑しくって、可笑しくって、思えば思えば可笑しくって、どうにもならなく可笑しかった」と
反復によって女の息づかいまで読者に届ける。

こういう笑いも素敵です。

この小説を紹介していたあるサイトには、こうありました。
無邪気な女達の笑いは、世の中のどんな陰気で悲惨なことも覆すような『生』の明るさと躍動感に満ちている」。
そのとおりですね。短編ですが、小津安二郎の演出で映像化してほしかったものです。

白夜のラマダン

さて、ネットでこういうニュースを目にしました。このときもまた笑いがこみあげたのですが、
はたしてその笑いは、どんな笑いでしょう。苦笑か、皮肉な笑いか…。
少なくとも、健康的な笑いではありません。

ストックホルムAFP=時事】夏至の時期の白夜で知られるスウェーデンで、イスラム教徒が
18日前後に始まるラマダン(断食月)の対応に苦慮して いる。断食は日没まで行われるが、
白夜の期間は日没がないか、日はほとんど沈まない。どの時点で食事をするかが難しく、
スウェーデンや欧州のイスラム指導者が新たな指針の検討を急いでいる。

いまやイスラム教徒は、『アラビアのロレンス』や『風とライオン』で見たような、ラクダと砂漠の土地ばかりに
住んでいるのではなく、北欧にまで移住しているんですね。
断食は、朝から日没まで行われるのが決まりですが、北欧では日が沈まない白夜になるので、さあ、断食は
いつから始めていつ終わりにすればいいんだ? と頭を抱えているという話です。

本来、この断食というのは、ご飯もろくに食べられない貧しい民の苦しみを体験し、その苦しみを知ることが
目的だったはず。それを知ればこそ、貧しい人々に与える施しにも血が通うという趣旨です。
いまはたいがい、断食が明けたら、飲み食いのお祭り状態になるみたいなので、このラマダンも本来の意味が
すたれています。
これはイスラム教だけに言えることではなく、このような形骸化は、しきたりを重視する古今東西のあらゆる
宗教にあてはまります。
それがバシャールのいう、「地球人は制限の帝王だと呼ばれている」というゆえんなのです。

考えてみれば、ブッダもイエスも、世のしきたり、形式、常識から抜け出したヒッピーだったはず。
あらゆる束縛から自由になれと教える本家本元の師の教えのはずが、その弟子らが組織(ヒエラルキー)を作る
ことで、教えの本義は枯れ、形式だけが残っているという様に、本家カリスマらはさぞ苦笑していることでしょう。