「国際ヨーガの日」に思うこと

6月21日は、国連で「国際ヨーガの日」と制定されてから
第1回目の記念日ということで、
その制定を呼びかけたインドのモディ首相の顔写真入りで、
某紙にこの記念祭の全面広告がありました。
日本のヨーガ人口は351万人にもなるんですね。

また、19日には18歳選挙権の施行が公布されました。
この2つの出来事から、こんなことを考えたのでした。

カモになる18の春

高校を卒業して大学に入ると、キャンパス内外で、色んな勧誘がやってきます。
18歳で選挙権が得られるというのは、18歳はもう大人だという考えなんでしょうが、
実社会を知らないとういうことでは、まだまだ子供です。
世間で手ぐすね引いて待っているのは、妙な募金をはじめ、ネットワーク
ビジネスやら、英会話や自己啓発セミナーなどの講座などで、ちょっと気を
許せば数十万円がむしり取られます。
だから高校では、卒業前に悪徳商法対策の講習を行うべきだと思います。
クラブの新人募集でも、宗教団体の下部組織になっている場合もあるので
要注意です。
静かな地方から都会に出てきたばかりの、まだスレていないウブな新入生で、
しかも一人暮らしなんていうのは、とくに友だちもほしい時期なので恰好の
カモになります。

そうそうカモといえば…、なんて、しょっぱなから脱線してしまいますが、
この広告を見て、わたし、泣きましたね。去年の末に話題になった広告です。

ああ、なんてけなげなカモさん。
いや…、カモじゃなくて鶏…、比内地鶏専門店「とりしげ」の広告です。

では、ねきまになってきます。

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▼あ、けさ産んだ卵も持ってくればよかった。

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▼こんなところで食べられるわけにはいかない。

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▼どうもー、食材です。

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宗教セールスの宗教知らず

カモがネギを背負ってやってこなくても、ネギだけでも向こうから来てくれれば
おいしいのですが、やって来るのはこちらをネギマにして食ってやろうという
悪どいセールスマンばかりで、ほかにも宗教の勧誘が甘い言葉でやってきます。
高校でもし道徳の授業があるなら、宗教学を教えるべきですね。
きちんと体系的に宗教のイロハを学んで免疫をつけておけば、
あやしい新興宗教がやってきても、ある程度ガードができます。

勧誘というのは布教活動ですから、そこまで活動できる者らは、みな洗脳
されています。自分たちは善であり、まだ目覚めていない闇のなかの人々に、
光の善導をしにやってきているんだと思い込んでいる連中です。
また、そうでなければ、わざわざ人を説きになど来れないでしょう。
たんなるセールスと違って、そこが厄介なのです。

しかし、そういう者にかぎって、宗教の常識的知識に欠いています。
教団セクトのトンデモな知識はバッチリ暗記していても、たとえば仏教系なら、
本家本元のゴータマ・シッダルタのことを知りませんし、キリスト教系なら、
イエスのことを知りません。セクトが書き換えた偽書の聖書は熱心に読んでいても、
共同訳の新約聖書すら読んでいません。
そういうのは、基本の生理学を知らないやぶ医者のようなものです。
大局を知らないインチキセクトだと客観的に眺められれば、もはやだまされは
しないでしょう。

とはいえ、こと宗教に関しては、どんなに高偏差値のエリートでも、絡められて
しまう落とし穴があるので、頭がよい人ほど気をつけなければなりません。

自力か他力か

古今東西を問わず、宗教を分類するうえでの基本中の基本は、自力か他力かです。
最低、そのくらいは知っておくべきです。
原始仏教は、みずからが心身の修行をして解脱をはかるという自力の教えです。
キリスト教やイスラム教は、信仰と戒律さえ守れば神が救ってくれるという他力の
教えです。

自力の代表は、原始仏教です。
ところが、シャカ没後、仏教は次第に変質していきます。
修行は大変で、シャカのように出家でもしなければ、同じような修行など
できないということで、大衆も在家でありながら解脱しブッダになれるので
なければならないという設定にしました。いまでいうポピュリズムですね。
そこで、簡易化がはかられることになったのです。
難行に対して、これを易行といいます。

シャカはけっして信仰など説かず、とにかくひとりで黙々と修行しなさい、
というだけです。有名な「犀の角のごとく歩め」ですね。
「人に依るな、法(ダルマ)に依れ」と。
だからもう、マントラを唱えて戒律さえ守っていればブッダになれるなんて
いうのは、シャカの仏教ではありません。
浄土真宗ともなれば、念仏さえ唱えれば極楽往生できるというのですから。
こうなったら、もはやキリスト教とどこが違うのでしょう。

仏教系の新興宗教で、教団創始者への崇敬が前提とされていたら、
まずそれは胡散臭いです。
そんな団体がしつこく勧誘してきたら、「私はシャカの仏教しか認めません」
といってやれば、たいがいケリはつくと思います(つかないカモ)。

キリスト教は、人類の原罪を自分の命と引き換えに帳消しにしてくれた
神の子イエスへの信仰がすべてです。
新約聖書――、すなわちイエスは、異教徒も愛せという隣人愛を説きます。
これは当時としては画期的な思想であり、いまでも通用する驚くべき宗教革命
ではあります。しかし、それはそれとして、現代人なら、たんに信仰するだけで
パラダイスが約束されるという理屈が、とうてい理解できません。

それにイエス自身が、30歳を過ぎてキリストとしてデビューするまで、
エッセネ派という瞑想中心の修行を重視する、ユダヤ教の一派の共同体に
属していたという説があるのですから。十字架にかけられたことで、
人類すべての罪が贖(あがな)われたという聖書物語を信じるほど、
現代人は素朴ではないのです。

自力も他力も瞑想は欠かせない

このように、自力と他力は水と油のようです。一見、まったく相容れない
ように見える教えなのですが、そこにわずかながら共通点を見いだせます。
わずかに残っているその共通点は、やはり多少なりとも自力がなければ
始まらないことを示唆しているように私には見えます。

シャカが修行したのはヨーガです。
最近ブームのヨーガですが、カラフルなマットを敷いてポーズをとっている
風景をメディアでよく目にします。
しかし、ヨーガというのは、あのようなポージング(アーサナ)中心の健康
ヨーガ(ハタ・ヨーガから発展したパワー・ヨーガ)だけではなく、いくつか
種類があります。ヨーガは、たんなる筋トレやストレッチ的なエクササイズ
ではないのです。

シャカがやったのは、ラージャ・ヨーガやクリヤ・ヨーガ、体の深部に
エネルギーを着火させるクンダリーニ・ヨーガなどの伝統ヨーガです。
この内なるエネルギーこそ、宇宙から流入するアカシャエネルギーなのです。
これについては話が長くなるので、詳しくはまたの機会に譲ります。

シャカは7年間苦行をした末、断食をやめ、体力を回復させてから瞑想に
入ります。その瞑想で覚者となり、解脱にいたります。

修行者の瞑想にはカタチがあります。手に印(ムドラー)を組み、
口にマントラを唱え、意(こころ)の奥深くへと沈潜します。
密教的にいえば、身口意(しんくい)の三密がそこにあります。
その三密が深く集中されたときに、アカシャエネルギーが流入し、
一気に解脱力を得るのです。
「私のことなんて信じなくていいから、あなたたちもそれをおやりなさいな」
というのがブッダの教えなんですね。
そうすれば、あなたたちもブッダになりますよ、と。

他力のなかにも三密がある

さて、他力の真髄(キモ)は信仰です。
その単純な構造のなかにも、三密はあったのです。

信仰のカタチは、神仏への祈りです。
信仰それ自体が大事なのでも貴いのでもないのです。

信仰は方便であって、大事なのは、その祈りの、精神集中の力です。
精神集中をさせやすくするためのテクニックが信仰なのです。
信仰は、洗脳のたまものです。
イエスは人類の救済のために、十字架にかけられた、という物語は、
情に訴えるなかなか劇的なストーリーなので、心によく残ります。
それが祈りの力を補強します。

人が祈るとき、そこにはまず合掌があります(身)。
口ではイエスの名や念仏を唱え(口)、
パラダイスや極楽を思い描くわけです(意)。

私たち日本人は、何気なくお寺にお参りするときはもとより、
神社で願掛けをするときもこの身口意の儀式を自然にこなしています。
たとえ形骸化されているとしても、それだけは残っているのです。

どんなに簡素化されても、あらゆる宗教にこの三密は欠かせません。
祈りのない宗教があるのなら別ですが。
身口意の三密こそ、魂の昇華をめざすオカルティズムの技法です。

潜在意識をアカシャエネルギーへ結びつける

深い瞑想は、アカシャエネルギーと感応します。そのアカシャエネルギーが、
この世の固い3Dビジョンを揺るがす、宇宙の潜在エネルギーなのです。
ヨーガの語源は、「馬にくびきをかける」に由来していて、個の意識を宇宙意識に
合体させることを意味します。

潜在意識とアカシャエネルギーとを結びつける、それが本来の意味だと私は考えます。
要は、自力にしろ他力にしろ、アカシャエネルギーを手の内にすればいいということです。
その根源のエネルギーを汲み出すのが、三密による祈念なのです。
ただし、身口意の身と口は、意密(意識・こころ)を集中させるための道具であって、
それらは絶対なければならないというものではありません。
要は深い瞑想――、すなわち潜在意識の奥の奥まで潜った意識の集中こそ
決め手なのです。

「心のなかで疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、
そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります」(マルコ第11章・23―24節)
とイエスがいうのは、たんに上辺の思いだけではダメで、深い潜在意識
レベルの確信がなければなりません。
当然そこには、アカシャエネルギーが感応しています。「一念岩をも通す」の、
揺るぎない思念のレーザービーム化がなければならないのです。

運を開く魔法の鍵

自力も他力も、瞑想は欠かせません。
瞑想は祈りといってもいいでしょう。
アカシャエネルギーに裏打ちされた瞑想力、祈りの力こそ、
運を開く魔法の鍵です。
そこで、イエスの言葉はこう書き換えられます。
「アカシャエネルギーと感応した潜在意識で、祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」

では、そのアカシャエネルギーを汲み出すにはどうすればいいのか?
潜在意識まで掘り下げる瞑想のテクニックとは?
当然、その話になりますが、それもまた簡単にできるようになったのです。
エネルギーなら機械で汲み出せる、そういう時代になったんですね。

長くなりました。その話はまたの機会に。

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