形の力

江戸しぐさはなかった

「江戸しぐさ」というのは聞いたことがあると思います。
あれはでっち上げだったんですね。そんなものはなかったんです。
http://friday.kodansha.ne.jp/archives/37754/

「江戸しぐさ」についての本も出ていますし、去年から小学校の道徳の教科書
にも登場していたのですが、捏造だとわかって、来年からは削除されることが
決まったそうです。正直、私もだまされました。
私が「江戸しぐさ」という言葉を知ったのは、いつからだったか。
そんなに昔ではありません。せいぜい十数年ほど前ぐらいだったでしょうか。
子供の頃も、青年期にも聞いたことはなく、突然出てきた話で、ああそんな
粋な心意気があったのかと、さすがクールジャパン、なんて思ったものですが、
おっと、当時クールジャパンなんていう言葉はなかったですね。
あぶなく捏造するところでした。

「江戸しぐさ」といえば「傘かしげ」というくらい、傘かしげは有名になり
ましたが、私がいままで記憶に残っていたのも、せいぜいその傘かしげ
ひとつぐらい。
狭い路地にひしめく江戸っ子の、軋轢をさけるための生活の知恵、譲り合いの
心ということで、いまに通じる道徳マナーの教本のように語られていました。
でも、そんな伝統がなくたって、それってふだんからやっていることだよな…、
と、ちょっとは思った覚えがあります。
だいたい狭い歩道ですれ違うとき、どちらか、あるいは互いに傘を傾けなけ
れば通れません。と、何をことさら…、という思いがあったのは事実です。
いつの時代、どこの国でもそれは同じじゃないの、と。

いったいどんな思惑なんでしょう。たんなる日本びいきならいいのですが、
そんな「江戸しぐさ」は、文献には一切残っていないのです。
落語にもなかったし、口承でもありません。
では、「江戸しぐさ」は、どうしてこれまで人々の口にのぼらず、廃れて
しまったのか?
それは明治維新時、そのクールな文化を敵視した官軍によって、江戸っ子
たちが大虐殺され、生き残った者たちも各地へ散っていったからだという
ことになっています。
荒唐無稽ですね。初めて聞きましたわ。いったい、どうしてそんな稚拙な
偽物語まで作らなければならなかったのか。それが奇妙です。

陰謀だらけ

世の中は、それぞれの思惑によって、あったことがなかったことにされたり、
なかったことがあったことにされることが多々あります。陰謀だらけです。
国際問題の絡む歴史においては、こういうでっち上げはいくらでもあります。
スパイ大作戦のような策謀なんて、国家間では当たり前。
外交は、基本的に片手で握手で、片手で殴り合いですから、騙し合いです。

客観的な歴史事実(ファクト)だけは、ファクトとして確定してほしいもの
ですが、交通事故でさえ、それがもし警察関係者によるものだったら、現場
検証のデータさえ歪められてしまうことがたびたびあるのですから、人の
思惑を除いた客観的な歴史の検証は、なかなか難しいものがあります。
なにしろ、物理や化学のように再現できないので。
しかも、自分らに都合の悪いファクトが新たに発見されて、歴史が見直され
そうになると、「歴史修正主義」といって叩きます。便利な言葉です。
いや、新たな資料が出てきたら、書き換えられるのが歴史というものです。

美しいかたち

日本人の立ち居振る舞い、しぐさや作法で美しいと思うものは多々あります。
襖をいちいち座って開け閉めするその両手の動き。
茶筅の素早い手さばき。
懐紙を挟む唇…、なんて、これは美しいというより艶かしいか。
不合理で因習と区別がつかない部分もありますが、手順や所作など、
伝統的に継承されてきた形には、洗練された美がありますし、いささかの
スキもない力強さがあります。

スポーツのフォームは、体のバランスをうまく保ち、より高く、より速く、
より強くなるための合理的な形になっています。
それが武術となるとなおさらです。相手を制するために、命がけで練られ
てきた形なのですから。
華道、茶道、書道をはじめ、舞踊、能、歌舞伎、狂言などの伝統芸も、
みな形から習うところから始まります。

カタチというのは、カタに「チ」が入ったものだという説があります。
チというのは、血であり霊。霊はチと呼びます。力のチでもあります。
そういえば、チはほかにも、地、乳、知など、生きるうえでの大事なモノ
にあてられた言霊になっています。
模型の型(カタ)というのは、チが入っていないからこそ、ただの模造
なんでしょう。

何事においても、初心者の弟子たちに、指導者はよくカタが出来ていないと
叱ります。カタを身に付け、修練していくうちに、やがてそこにチが込められて
いくと、力の出るカタチになるわけですね。
その形を守ってさらに修練を重ねていくうちに、やがてその枠に収まらない
個性が現れてきて、形を破る時期がやってきます。新たな一門をなすわけです。

形を守り、形を破り、師から離れていく。
それを「守・破・離」といいます。
本ブログのモットー、「常識に照らし、常識を疑い、常識を超える」というのも
この「守・破・離」に拠っています。

本物はみな、独自の形をつくるものです。
そのためには、まずカタに霊(チ)が入っていなければいけません。
同じカタでも、力が肩に入っていれば、力は出ないみたいですけどね。

三次元の物質であるからには、モノはみな形があります。
道具を見ればわかるように、モノにはその機能にふさわしい形というものが
あります。

形に力が宿るのは、その形が空間の潜在エネルギーと共振するからです。
そこに私たちは美をみます。
美しいフォルムには「チ」が宿っているのです。
チ、すなわち、それもまたアカシャエネルギーです。
その意味で、チはまた「気」でもあります。

ギョッとしたかたち

最近、というか、前から気になっていることがあります。
お辞儀のなかで、両手をお腹で組み、両肘を張り出して頭を下げるポーズを
あちこちで見かけます。あれは一体いつから流行りだしたのでしょう?
昔から、デパートのエレベーターガールがやっていたような記憶がある
のですが。航空会社の客室乗務員もそうだったでしょうか。
どうも、何を根拠にしたのか、それが美しい作法だということで、
マナー教室などでデフォルトのお辞儀として教えられているそうです。

お辞儀(礼)というのは、両手を体側に沿って伸ばしたり、あるいは膝頭へ
すっとすべらせるように伸ばしたりするのが普通だったはず。
歌舞伎役者や能楽師などの紋付袴の人たちが、あのお腹で手を重ねる
お辞儀をする姿を想像すれば、ずいぶん違和感があるのがわかるでしょう。

先日も、近所のファミレス、某華屋与兵衛で、社員らしきウェイターに、
お腹で手を組み、肘を張り出したポーズでずいぶん慇懃(いんぎん)に
お辞儀をされて、ギョッとなったものです。
「お腹、だいじょうぶですか?」
と、思わず声をかけそうになりました。

さすがにこれは私だけではなく、気になっている人は多いようです。
そんなところに堂々と流れたこんなTVCMが、ちょっと前、ネットで話題に
なっていました。

さすがにこれはないでしょうねえ。
百歩譲って、これが礼だとしたら、謝罪の礼ではなくサービスの礼です。
「申しわけありませんでした。ではお詫びに、これからお肩を揉ませていただきます」
というお辞儀です。

同じ頃、アサヒ新聞でも、正しい礼の仕方として、肘を張り出したそんな妙な
ポーズをイラストで紹介していたのには驚きました。
いまネットを探してみたら、同じく疑問に思った人がブログにそのイラストを
掲載していました。
イラストは無断掲載ダメとのことで、アドレスを貼っておきます。
http://tukasagumi.exblog.jp/24357389/

これをきっかけにあれこれ調べてみたら、なんと某アサヒ新聞は一貫してこの
妙なお辞儀を推奨しているんですね。以前から確信的にやっていたようです。
http://www.asahi.com/job/syuukatu/2013/pose/gallery/20111215/#title5

古めかしい写真が載っていて、こういう雰囲気が嫌いな人には恐縮ですが、
このサイトが詳しいです。
http://blog.goo.ne.jp/chaos1024/c/f59caf897cdabe8b9b66ca39148c5241

必ずしも、伝統のすべてが無条件にいいとは思いませんし、実生活では簡略化
してアレンジしてもいいとは思います。しかし、どうもこの肘張りお辞儀は、
日本の伝統的な作法に対する挑戦であることは間違いないように思えます。

江戸しぐさならぬ、平成しぐさとでもいいましょうか。
これでは力の入らない、すなわち「チ」のないカタチであり、
アカシャエネルギーは流入しないでしょう。
日本人霊(チ)抜き計画、骨抜き謀略だとうのは、いささか肩に力の入った、
アタマにチが上った陰謀論にすぎるでしょうか。  了