お墓と成功法(2)

それでは、前回で紹介するつもりだった原稿(以前、ある雑誌のコラムに書いたもの)を紹介させて
いただきます。

お墓の好きな日本人

 あなたは霊魂を信じますか?

近頃、死んだ人間がこの世に舞い戻るという物語をよく見かける。ちょっと思い出してみても、
『鉄道員(ぽっぽや)』『秘密』『四日間の奇蹟』『いま、会いにゆきます』『黄泉がえり』など。
これらはみな小説であり、映画化もされている。一昔前には、『居酒屋ゆうれい』や『異人たちとの夏』
なんていう作品や、洋画では『ゴースト』や『シックスセンス』があった。
「魂や死後の世界を信じる」人の割合は、いまどのくらいだろう。心霊番組もよくあるので、
けっこうな割合になるのではないか。それでもまだ、死んだらそれまで、という現実派も半分はいる
だろう。大雑把だが。
死後の世界を信じていなくても、人は死んだらお墓に入って供養され、身近な者に死なれれば、
私たちは墓前で手を合わせる。年に一度は、先祖の墓参りもするだろう。
それにしても、「あの世」を信じていない者が葬儀や墓前で手を合わせるときには、一体何に何を
祈っているのか? 「冥福を祈る」というなら、冥界とはまさにあの世のことではないか。しかしまあ、
世間のしきたりで、祈るふりでもしておかなければ角もたつ。とかくにこの世は住みづらい。

 墓を作ったときサルはヒトとなった

「人間とは何か?」という定義が、昔からあれこれ試みられてきた。直立二足歩行をする、コトバ持つ、
道具を使う、火を使う、などなど。
そのなかに「墓を作る」という定義がある。人類が人類となったのは、まさに墓を作り出したときからだと
いうのである。たしかに、前足を合わせて合掌するイヌやネコはいても、墓を作る動物など人間以外に
心当たりはない。
チンパンジーは、死んだ乳飲み子に執着する話は知られている。死んだからといって、すぐに捨てる
べきモノになってしまうのではなく、干からびてミイラになっても手放さず、乳をやる仕草も止めない例が
観察されている。それでも一定の時が経てば、やがてモノとなって遺棄される。そんなに執着していても、
その遺体を土に埋めることは決してない。

 最初に墓を作ったのはネアンデルタール人

たんに穴を掘って埋めるというだけでは墓とは呼べない。イヌやネコだって、糞をすれば土をかける。
遺体を放置すれば嫌な腐臭が漂うし、動物に荒らされるので、たんに死体というモノとして処理して
いるだけかもしれないのだ。近くに川や洞窟がないから、仕方なく埋めるというわけ。
しかし、ネアンデルタール人が発見されたイラクのシャニダール洞窟では、遺体と一緒に花が埋め
られていたのだ。その献花が死者への供物であり、墓であることの証明になったのである。
ネアンデルタール人と共存していた現生人類のホモ・サピエンスも、同じく墓を作る種族だった。
時が経つにつれて、献花は、やがて死者がふだん使っていた道具や宝飾品などの副葬品となって
いった。
副葬品というのは、死んでからも、あの世で不自由なく暮らしてほしいという願いがこめられている。
死んだらそれで終わりになるのではなく、来世の「あの世」が待っている。つまり、肉体が滅んでも、
なくならない「霊魂」という存在が想定されているのだ。
科学から見たら、脳死で人格はすべて消滅する。あの世など迷信にすぎない。しかし、仮に迷信だと
しても、それは相当高度な精神がなければなるまい。イモを洗って食べるサルはいても、縁起(迷信)
をかつぐサルはいないだろう。
まさに霊長類。霊に長けた種が人類というわけだ。ということで、霊魂を意識するホモ・サピエンスと
ネアンデルタール人だけが人類の名に値する。墓を作らなければ、霊長類に分類される他のサル
たちは、本来、霊長類には値しないのだ(まあ、これは冗談で、霊長類の霊はたんに「優れた」という
意味。霊魂とは無関係)。

 墓を作らない民族(宗教)もある

同じ人類でも、墓を作らない民族もある。といっても、霊魂を信じていないわけではない。
例えば、輪廻転生の本家本元であるヒンドゥー教徒は、火葬にして灰を川に流したり地に撒いたり
する。
チベットには鳥葬があり、ニューギニアでは遺体を樹上に据え置く部族もある。棺にも入れないで、
そのまま遺体を地上に放置する風葬は世界各地にある。一見、あの世の観念のない死体遺棄の
ようにも思えるが、皆それぞれに来世の幸福を祈られて葬送されている。昔は日本にも風葬はけっこう
あった。
墓を作るにしても、死者への供養の仕方は様々である。アジアやアフリカの伝統的宗教では大体
墓参りが好きで、供物も捧げる。日本人も、なかなか熱心な墓参り信者だ。
ドラマを見ても、墓参りはよくあるシーンで、墓石に向かって語ったり、またそこで偶然関係者
同士が出食わしたりする(!)のが定番になっている。
家族が他界して間もなければよく足を運ぶだろうし、先祖の「供養」のために、彼岸や盆の墓参りは
欠かさない。日本人は無宗教といわれながら、「あの世」の熱心な信者である。
これに対して、クリスチャンは淡白だ。まず墓は礼拝の対象にはならない。捧げるのはせいぜい花
ぐらいで、供物は供えない。あの世のことはみな、神が仕切るという発想だろうか。イスラム教徒も同じ。
ただ聖者は、現世利益を与えてくれるということで、その霊廟は礼拝の対象となっている。

 死者への供養と死霊への恐れ

墓は、冥福の供養のためにあるだけではなかった。古代の、石を抱えて埋葬された屈葬を見ても
わかるように、死霊がさまよい出ないための仕掛けもある。日本では、死後間もない霊は不浄であり、
時間が経つにつれて浄化され、やがて子孫を守る祖霊となるという考えがある。死後しばらくは、遺体と
共にじっとしていろ、というわけだ。菅原道真や将門のように、祟りを怖れられる存在ともなれば、霊の
封印ではなく、丁重に祀ることで祟りの回避がはかられたのである。

 いずれ墓は冷凍カプセルに?

日本の墓といえば、まず頭の平らな方柱状石塔が思い浮かぶ。ところが、あれはけっして伝統的な
様式でもなく、江戸時代後期から出てきた流行(はや)りのようだ。墓も時代によって流行がある。墓は
どんなスタイルでもいいのであり、墓石もピラミッド型にしたって悪くはない。どうせ霊魂は墓に眠って
なんかいなくて、「千の風になって」いるのだろうから。
となると、こんな疑問がわいてくる。発達した未来の医療技術によって蘇生してもらおうということで、
遺体を冷凍保存するサービスが米国にはある。これも一種の墓なのかもしれない。しかし、一体この
遺体の霊魂はどうなるのだろう? 遺体と一緒に冷凍保存されるのだろうか。
まさに霊凍保存。
それともいったん風になって、蘇生したときにまた戻ってくるのか。
あるいはちゃっかり転生して、その未来の頭脳で蘇生術を完成し、冷凍保存の前世の自分を蘇生
させるというような、アンビリーバボーな展開もあるかもしれない。もっともそうなったときには、老いた
元の体になんか戻りたくはない気もするが。

シャカは肉体こそ墓だと思っていた?

自分で書いておきながら、冷凍カプセルに、なんていう話はすっかり忘れていました。
なるほど、霊凍保存か。
それにしても、魂が転生している未来で、かつての肉体が蘇生したとき、自分は同時に2つの体で共存
できるのでしょうか?
現代の自分が、過去や未来の自分へ会いに行ったらどうなるのか、といったタイムパラドックスに似た
難問です。

問題は、このとき魂はどうなるのかということです。アメリカの冷凍保存サービスは、全身まるごとだと
思いがちですが、なかには脳、あるいは頭部だけ切り離して保存するという方法もあります。そんな状態で、
魂以前に意識がよみがえりでもしたら、はたして精神は正気でいられるのでしょうか? 閉所恐怖症の
私としては、究極の閉所なので、考えるだけで発狂しそうです。

キリスト教では埋葬された死者はいずれみな復活する

冷凍カプセルでいずれよみがえるというのは、必ずしもSF的な発想ではありません。
そもそもキリスト教では、お墓に入っている死者は、復活の日にやがてみな肉体的によみがえるという
考えをもっています。
朽ちた遺体がそのまま、きれいな体になってよみがえるというのはメルヘンですが、その遺伝子を
培養して作りなおすというなら科学です。

日本人が遺骨に執着するのと同じく、アメリカ人は外地での戦死者を、どんなに傷ついた遺体でも、
できるだけの努力をして母国に持ち帰ります。遺族のためではあるでしょうが、それも、復活を見据えた
信仰に由来していのかもしれません。
それからすると、肉体をただの魂の入れ物の物体として、なんらの執着もしないシャカの宇宙観のほうが
私にはしっくりきます。とにかく、シャカは、死後、肉体から抜け出した魂がまたこの世の肉体に宿るという
輪廻転生からの解脱を説いていたのですから。
現世否定の、いわば究極のマイナス思考ですが、そっちのほうが粋だと思います。
シャカにとって、この肉体こそ自由な魂が埋もれてしまっている墓だと思っていたのかもしれません。

供養式成功法

この世は「顛倒(てんどう)夢想」のスクリーンである――。
そんなふうにして、この世も自分自身も、客観的に眺めるこころの姿勢が、潜在意識に潜り込んで
この世のビジョンを都合よく変える、意識の力となります。
愛するものの死に、人は世の無常を知って嘆きます。
せめてその形骸だけは永く遺してやろうという無常への抵抗で、人はミイラを作ったり、墓を建てたり
するのかもしれません。
が、その無常観こそ、裏を返せば成功法の極意に通じるのです。

現実は、けっしてシナリオがかっちりと固定され、ハードディスクに焼き付けられた3Dビジョンでは
ありません。空間だけではなく時間もそう。過去から未来へ流れるだけではなく、現代が未来を追い
越してしまうタイムパラドックスだってありえます。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし」

無常を説く方丈記の有名な出だしです。淀みに浮かぶ泡は、一方では消え、一方では生まれ、
一瞬も留まっていない幻です。とはいえ、水の流れは現実であって、船を浮かべて楽しむことさえ
できるのです。みな流れていて、確固としたものは何もないのですが、固い氷でないぶん形も自由に
操れます。

どうせ墓参りに行くなら、成功法の極意がそこにあると意識して向かいましょう。
家では、もし信仰があるなら、その神仏をイメージして意識を集中させます。
それが供養式成功法です。
どうしてもそれができなければ、あるいはもっと簡単に精神を集中させてアカシャエネルギーと共振
させたいのなら、ヒーラーズラボには、それを補助する物理的な装置が用意されています。
ぜひ活用してください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です