一神教vsアニミズム

アニミズムは成功法のベースである

ずいぶん更新が滞ってしまって恐縮です――。

さてさて、今回は、安田喜憲氏の『一神教の闇』をベースにして、
「一神教VSアニミズム」をテーマにします。
長くなりそうなので、まず結論から先にいいます。

◆一神教は争いを生む人工的な思想であり、これからは万物に魂が宿るとみなす
アニミズムの時代である。アニミズムは環境破壊の歯止めにもなり、戦争抑止の
平和をもたらす力ともなる。それが1つ。

◆また、成功法においても、アニミズムの心こそ、自分の思いを潜在意識の
キャンバスに抵抗なく描きやすく、さらにそのイメージはより深く浸透する。
いったんそれが浸透すれば、無理なく持続され現実化されるのである――。

つまり、平和と現代の環境問題にとって、アニミズムの精神が欠かせなく、
さらに個々人の成功を持続させるにも、昔から万物に魂を見るアニミズム的
世界観が大いに有効なのです。
私たち日本人の「やまと心」は、そのアニミズムに源流があるのです。

日本人は霊性豊か

よく日本人は無宗教だといわれます。
でも、宗教心はけっこうあるんですね。けっして唯物論ではありません。
お盆には墓参りに行き、正月には神社に初詣。家には神棚や仏壇がありますし、
クリスマスどころか、最近はハロウィンだって祝います。
まあ、クリスマスやハロウィンはただのフェスティバルですね。とはいえ、
お釈迦さんと一緒にイエス・キリストを信じている人はけっこういるでしょう。
1つの宗教に固執し、神はひとつだと信じ込んでいる世界の常識からすると、
そんな節操のないのは宗教心とはいえない、だから無宗教だというんだと、
かえってお叱りを受けるかもしれません。

宗教心でなければ、死んでそれで終わりにならない、物質(肉体)を超えた
存在があることを漠然と信じているといえばいいでしょうか。
その存在を伝統的な言葉でいえば、霊といい魂といいます。いずれにしろ、
肉体は滅びても、自分という意識は継続されるという考えです。
とくに人工的な宗教などの教えを受けなくても、そのような霊的心性が備わって
いるのが日本人の心なのです。

アニミズムとは?

さて、宗教は、大まかにいって、一神教と多神教の二つに分かれます。
一神教の代表は、ユダヤ・キリスト教、イスラム教であり、多神教には、
八百万の神がいるわが神道やインドのヒンドゥー教、多くの仏菩薩がひしめく
仏教などがあります。

その多神教のなかでも、世界のすべて、生きとし生けるものすべてに霊性が
宿っているという考えを「アニミズム(animism)」といいます。仏教的にいえば、
草木悉皆成仏です。

アニミズムとは、アニマ+イズムです。このアニマ(anima)というのは、アニマルや
アニメーション(animation)のアニマであり、ラテン語で気息、生命、霊魂という
意味です。ただの絵や人形を、生きて動いて見えるように命を吹き込んで動画に
したというのがアニメーションです。

アニミズムは、西欧の一神教の世界観からすると、原始人の幼稚で猥雑な迷信
であり、唯一絶対の創造主が君臨する一神教の世界観のほうが高級な観念だと
思われてきました。
また、それが宇宙の真理であり、信ずるに足るべき実在だとみなしているわけです。
たしかに幼児の絵は、太陽や月、山や川、草花や虫、道端の石ころのはてまで
人格化して描きます。アニミズムとは、そのような幼稚な考え、未開の原始心性
だとみなすのです。しかし、アニミズムは本当に幼稚な観念なのでしょうか?

一神教は洗脳によって信仰力を生むのだが

聖書神話に代表されるように、一神教には劇的な物語があります。ノアの箱舟、
バビロンの塔、モーゼの出エジプト、ジェリコの戦いなど。映画の『十戒』や
『ベン・ハー』の大スペクタルは、娯楽としても大いに楽しめます。
人間は、音楽の旋律がスッと頭に入って記憶されるように、壮大で感情に訴える
ドラマは、胸の奥に響きます。イエスが人間の原罪をあがなうために十字架に
かけられたという話などは、まるでオペラのように劇的で、人間なら心が動かされ
ないわけがありません。

一神教の物語を信仰する強い信仰心は、精神集中を高め、潜在意識のキャンバスに、
ビジョンを刻む力も強くなります。
心の奥に、まるで実在するかのように、信じれば褒美をくれる神だって作り上げ
てしまうでしょう。その意味では、創造神話のある一神教のほうが有利です。
一神教の西欧が科学技術に優れていたのもそのおかげです。

闘争に勝つにも、自分には正義の絶対神が守ってくれているんだと思い込める
ほうが頑張れます。神が指揮する勇ましい軍艦マーチが鳴っていれば、高揚も
するでしょう。願望を叶えてくれる潜在意識の馬を調教するには、一神教神話に
よる信仰はいい鞭になるのだと思います。神は麻薬なのです。

アニミズムのほうが潜在意識へ深く入り込む

しかし、自然環境を含めた他者のすべてに自分と同じ魂を見、他者の幸福を
自分の幸福だとみなす心のほうが、そのビジョンはより自然に潜在意識の奥へ
深く浸透します。刻み込む筆力は、一神教の信仰力のほうが上手ですが、
万物同根のアニミズムのほうが根強いのです。

一神教は、ジャングルを切り開いてビルを建てるパワーがありますが、
メンテナンスを怠ると、遠からずそれはまた森林に飲み込まれてしまいます。
いうまでもなく、生命に満ち溢れたそのジャングルこそアニミズムです。
願望のビジョンを描く潜在意識のキャンバスには、ムチよりもアメ、北風より
太陽のぬくもりのほうが、よい絵の具になるのです。

一神教の闇

旧約聖書で、人間は神から、自然とすべての生き物を支配していいと許されます。
そのせいか、西欧に進出したキリスト教徒らは、牧畜を営み、森林をどんどん
伐採して山林を丸裸にしていきます。

『一神教の闇』で、安田喜憲氏は、この一神教の人々を「牧畜狩猟民族」と呼び、
自然環境を大事にするアニミズムの人々を「畑作漁労民」と読んで対峙させます。
近代科学の魔術を手にした一神教の牧畜狩猟民族は、近代以降、いっそう自然
環境を破壊していくことになります。
自然環境と共生するのがアニミズムの精神であるのに対し、一神教の徒にとって、
自然環境は人間が利用するべき対象でしかなかったのです。
一神教は、自然を人工的に改変していく馬力は強くても、同時にそれは自然の
破壊にもつながる諸刃の剣です。安田喜憲氏はこう述べます。

 

もっとも恐ろしいのは、超越的秩序の宗教に導かれた妄想を実現するためには、
たとえ人間の命が犠牲になってもかまわないと考えることである。神の国の実現
のためには自らの命を投げ出してもかまわない。他者の命を奪ってもかまわない
と考える。そして神の国においてかならず祝福されるという妄想を抱く。そこが
問題なのである。たとえば宗教的信念にもとづくテロによって、どれだけの尊い
命が奪われたことか。
キリスト教は(そしてイスラム教も)、一神教の闇という幻想の世界を作り上げた。
(中略)この幻想によって一神教の国を作り上げる行為は、仮想敵としての共産
主義の悪やテロリズムをでっちあげる行為と根は同じである。それは自らの主義
主張に相反するものを力で叩き潰すという行為を容認し、支援しているのである。
こうした文明観を根底的に改めないことには、世界に平和は訪れないのではある
まいか。
イスラム国家がテロリズムの巣窟であるという幻想を作り出したのも、アメリカの
新保守主義の「キリスト教原理主義者」たちであった。イラクのサダム・フセインが
大量破壊兵器製造しているという幻想をふりまき、人々を恐怖に陥れたのも彼らの
策略である。しかし、それは仮想敵をでっちあげる口実にすぎなかった。
その行為は、砂漠の民が神の国を妄想し、五百年前にはキリストの神の祝福を
普及するという口実のもとでインディヘナの人々を虐殺・征服し、アズテクの文明や
インカ文明を崩壊させたスペイン人の行為と何も変わるところがない。
変わったのは、その妄想の波及効果によって生まれる死者の数が、さらに追加
されたことだけだ。
「キリスト教原理主義」と闘う「イスラム原理主義者」もまた、幻想の超越的秩序の
世界に生きる人々である、神の国という幻想の世界を信じ、聖戦によって命を
投げ出したものは神の国に召されるという信仰を信じる人々である。
自爆テロは、こうした人間が作り上げた妄想に命を投げ出す行為でしかない。

インディヘナ――スペイン語で「原住民」の意

 

ひとり子を生け贄として差し出せと命じる神

旧約聖書の創造神であるヤハウェは、自分で嫉妬深い神だと吐露しているように、
他宗教の神への色目を許しません。異教も異教徒も、殲滅の対象なのです。
ヤハウェは、たえず信仰者にその忠実さを試します。その忠心を義といいます。
私がこれはついていけないなあ、と思ったのは、有名なアブラハムのエピソードです。
日本人なら誰でもそう思うでしょう。

アブラハムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の始祖に当たる重要人物であり、
「信仰の父」と呼ばれています。
アブラハムには子がなく、100歳にしてやっと子供イサクが生まれます。
ヤハウェはアブラハムの忠義を試すために、そのイサクをいけにえとして差し出せと
命じるのです。すなわち、「全焼のいけにえとしてわたしに捧げなさい」と。
全焼というのは、羊の丸焼きのように焼いて捧げろというわけです!
しかし、神への義に篤いアブラハムは、ひとり子を差し出すことに何の躊躇もない
のです。

祭壇の薪の上にイサクを縛って寝かせ、刀を手にしてまさにわが子に手をかけようと
したとき、天使が現れてこういいます。
「その子に何もしてはならない。いま、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
あなたは、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた」

はたしてこれは義なのでしょうか?アブラハムに、何のためらいもないというのも、
信仰のロボットのようで、おぞましさを覚えます。そこで葛藤してこそ、義の価値がある
のではないか。葛藤がないのだとしたら、思考停止か妄信と変わりありません。
宗教にとって、何の疑念もなくストレートに信じる者は、素直な魂として尊重されますが、
それは盲信と紙一重です。

母親を見捨てられなかった杜子春

一方、『杜子春』という芥川龍之介の小説があります。これは、中国由来の物語
『杜子春伝』を芥川龍之介がアレンジしたもので、国語の教科書にもよく載っている
のでどんな話か知っている人は多いでしょう。

唐の都洛陽で、若者杜子春が鉄冠子という名の仙人と出合い、その仙術を習うために、
峨嵋山の頂上で試練を受けることになります。
試練というのは、「様々な魔物が現れて脅そうとするが、たとえ何が起きてもけっして
声を出すな」というものでした。もし一言でも口を利いたら一発落第で、仙人になる
資格はないというのです。

虎や大蛇に襲われ、雷に打たれても杜子春は禁を守って黙し続けます。
ついには神将の槍に突かれ、地獄に落ちても無言のままです。
閻魔大王に問われても口を開かず、鬼らのあらゆる責め苦にあっても黙ったままでしたが、
最後に彼の前に亡き両親が引きたてられるのです。
鬼どもに鞭を浴びせられて瀕死となりながらも、「私たちはどうなってもいい。お前が黙って
いたいならそうしなさい」といってわが子を思いやる母親に、さしもの杜子春も思わず声を
漏らしてしまいます。
オチはもうおわかりでしょう。
そこで、鉄冠子が現れてこういいます。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」

これはたんなる小説です。そういえばお釈迦さんも、七年もの苦行ののち、
菩提樹の下で成道(覚醒)するに至った最後の瞑想を始めると、様々な悪魔が姿を
変えて現れ、脅したり誘惑したりしたものです。
しかし、お釈迦さんの場合は、それをことごとく幻覚だと退け、心を平静に保ち続けた
ことによってブッダとして覚醒したという正反対の話ではありましたが。
まあ、お釈迦さんの場合は、誰からも課されたのではない主体的な行なので、
正反対にもなるのでしょう。

神が試練を与えるとき、もし杜子春の世界なら、アブラハムの思考停止の帰依は、
それだけでアウトです。
信仰の対象に値するのか否かというのはともかく、私が信仰の対象にしたいのは、
やはり人の情を無視した無条件の忠誠を求める神より、人情味のある仙人のほうです。
同じ生命、同じ霊魂という意味では、仙人も老母も等価値なのです。
仙人が神でも同じです。老母も地を這う虫けらも、自然の一員、地球の一員、宇宙の
一員ということで当価値であり、神道的にいえばみな神の分け御霊、すなわち神なの
です。それが万物同根のアニミズムです。

一神教の狂気

一神教というのはあくまで神への義、忠誠が最優先で、それがすべての正義で
あり善だという設定の上に成り立っています。神からのどんな難題にも、平伏して
それを実行しなければなりません。
もしそれを拒めば、罰が与えられ地獄に堕ちます。信仰を試すため子供の生け贄を
命じたり、自爆テロを起こすことより、さらにおぞましかったのは、数年前のニュースでした。

――それはアフガンで8歳の娘が爆弾入りの小包を警察へ運ばされ、爆死したという
報道でした。わずか8歳の娘が、爆弾を運ばされて爆死したのです。
おそらく少女は、たんにテロリストらの目に止まっただけで、これから自分の身に何が
起こるかも知らないまま瞬時に肉片となったのです。
娘に爆弾を運ばせるという行為だけでも身の毛がよだったのですが、当初、
それでも爆弾は時限爆弾か衝撃でスイッチが入るものだと思っていたのです。
しかし、それはリモコンで爆発させられたというではありませんか。少女に爆弾を
運ばせて、自分は安全な場所に隠れていて、ただスイッチを押す。
少女には親も兄妹もいたはずです。その嘆きを、犯人らは自分に置き換えて想像
しないのでしょうか。娘の哀れさはもちろん、神でさえその所業に背筋を凍らせたのでは
ないかと思います。

もし、神も嘆かないのだとしたら、神とは一体なんなのか?
すべてに自分と同じ魂が宿るとみなすアニミズムの民には、想像すらできない
ことです。
われこそは唯一無二の神だと宣言し、他は邪教、われを信じれば救われると説く
宗教は狂気そのものであり、それを丸ごと信じて多民族のジェノサイドをはかる
などというのは、狂気の感染者といっていいでしょう。

よきサマリア人のたとえ

旧約聖書はともかく、新約聖書のイエスは、このような狂信も選民思想もなく
なっています。キリスト教の名誉のために、それを断っておかねばなりません。
イエスは「自分のように隣人(となりびと)を愛せ」と説きます。そうすれば永遠の
いのちが得られるというのです。

「では、私の隣人とは、だれのことですか?」とユダヤ人の律法学者が問います。
そんなストレートな質問をはぐらかして、イエスはおよそこんな話をします。

――強盗に身ぐるみ剥がれ、ケガをして倒れている旅人がいる。その側を祭司が
通りかかったが、祭司は見ないふりをして通り過ぎた。同じくレビ人も見ないふりを
して過ぎ去った。3人目にやってきたサマリア人は、瀕死のその男をあわれんで
介抱する。傷口にぶどう酒とオリーブ油を注ぎ、包帯を巻いて旅館に運んでやる
のだった(ルカ10.29~37)――

この話のあと、イエスは律法学者に問い返します。
「この3人のなかで、だれが強盗に襲われた者の隣人となったと思いますか?」
律法学者は答えます。
「その人にあわれみをかけてやった人です」
するとイエスはいいます。
「では、あなたも行って同じようにしなさい」

このやりとりを文字通りに考えれば、困っている人に手を差し出す人が隣人に
なるわけです。しかし、そんな自分にやさしくしてくれる人を愛せよ、なんていえば、
ずいぶんつまらない話になってしまいます。たとえば、イエスと律法学者の会話を
勝手に補足させてもらうと、こんな感じになるでしょうか――。

律法学者は答えます。
「その人にあわれみをかけてやった人です」
「フム…」
うなずくイエスに、律法学者は、さも嬉しそうにこういうのでした。
「では、どんな人にも分けへだてなく手を差し伸べる優しい人を、自分のように
愛することにします!」
するとイエスはいいます。
「そうじゃなくてね」
「は?」
「それじゃ当たり前でしょ。そのサマリア人のように、あなたも外に出て同じように
しなさいってことですよ」

おまえ自身が隣人となれ

さすがにイエスの答えは、ひねりがあって、愛する対象は誰か? なんていう問いに
単純には答えません。
隣人は誰かと問うヒマがあるなら、あなた自身が隣人となれ、というのです。
この律法学者とイエスのやりとりや、たとえ話を用いた「隣人とは誰か?」
という問答はけっこう解釈が難しいです。私も理解に苦しみました。
まず、これは一般人との問答ではなく、律法学者というユダヤ教のエキスパート
との問答だということです。それが大前提になります。

このサマリア人というのは、ユダヤ人とアッシリア人との混血で、当時ユダヤ人に
迫害されていた少数民族です。また「レビ人」は特別な存在で、ユダヤ人の中で
祭司と共に神殿の仕事に就ける一族です。つまり、神に仕えられる血筋のレビ人が、
瀕死の人を見捨てたのに、サマリア人だけが親切だったわけです。
そんな卑しいとされるサマリア人であっても、打算なく、宗教を超えて人に
あわれみをかけられる人間はいるものです。そのような人に、神の国の門は開かれ
ているというのが、まず一般的な解釈です。
親兄弟、同胞を愛するのは当たり前、忌み嫌う異教徒にも親切にしてこそ神の道
だということで、イエスの博愛が示されているという解釈が生まれます。

でも、それだけではないんですね。やはり「隣人」というのが曲者です。
おそらく、律法学者は隣人を同胞などの狭い範囲にしたかったのでしょう。
そうしたほうが異教徒や罪人を愛するよりずっと簡単ですから。
しかし、隣人となったこのサマリア人は、「あわれみ」を覚えたり、ぶどう酒と
オリーブ油を注いだりしたということから、どうやらキリストを暗示しているようなのです。
つまり、たんなる博愛だけの話じゃないということです。
律法学者も救世主(キリスト)を待つユダヤ教内部の人間です。彼らに対して、
ユダヤの神と救世主を愛せというのは当然であって、これでは教えになりません。

ところが、イエスは、おまえ自身がキリストのあわれみを実践しろと説くんですね。
学者として重箱の隅をつついて聖書解釈しているのではなく、外に出て愛の
隣人となれと。
それが隣人(イエス)を愛せ、おまえ自身が隣人となれという意味なのでしょう。
光を愛すること。その究極は、自分が光になることです。

よきサマリア人のたとえを肌でわかっているのがアニミズム

「啓典宗教」というように、一神教は伝承された神の言葉(テキスト)によって
人々を啓蒙しなければなりませんでした。
それに対して、アニミズムには聖典もなければ教育もありません。そんなことはみな、
肌で、直感で知っているのです。忠誠を誓わなければ罰が与えられる、おそれ多い
神という、肉体を超えた霊的存在を教え込まれなくても、自然環境には霊的な
存在が満ち溢れていることを知っていました。

私たち日本人は、山深い神社の境内に、下界にはない神々しい気配を感じます。
私たちにとってはそれが神なのです。それもまたおそれ多い神です。
山も神、川も神、クマやサケも神。狼はまさにオオカミ。巨木も神として注連縄を巻き
ますし、路傍の石仏も神なので、だから寒そうな地蔵にあわれみを覚えて傘を被せて
やるわけです。その寒さを、自分の寒さのように肌で感じたからです。
偶像崇拝を低俗と見る一神教には、まずありえない感性です。

和の民

「和の民」なんていうと、どこかの居酒屋チェーン店みたいですが、アニミズムは、
世界各地の民族にいまなおけっこう継承されています。
604年に、すでに聖徳太子は「十七条憲法」の第一条において、「和をもって貴し
となす」と宣言しています。
和というのは、協調を意味します。平和の和であり、和食というように、日本を表す
言葉でもあります。

漢字の和の語源は、「のぎへん」に「口」で、「稲を口にする」という意味だといいます。
つまり、和国というのは、稲を口にする国を表しているのでしょう。
たしかに、瑞穂の国というように、日本文化にとっては、稲作を抜きには語れません。
これが日本人の精神のベースにあります。田んぼ作りは、自然を収奪する西欧の
牧畜とは違って、循環する自然との共生がなければ始まりません。
田んぼは、循環する自然のひな型なのです。

水田は、川から水を導きます。川の水には、清流によって山の滋養が運ばれます。
川から導いた水路は、それぞれの田んぼを潤しつつ、下流の田んぼへと次々に
流れていきます。上流の自分だけが水路を独占するわけにはいかないのです。
稲作の民は、共有、共生、協調という観念が自然に芽生えます。米の煮える焚き火を
囲み、車座になって和(なご)やかに食を共にする。輪になって和むのです。
神から教わらなくても、自分が隣人でなければならないことをアニミズムの民は
知っています。

森を伐採し、牧草地を広げていくだけの収奪では、やがて土地は砂漠化します。
水田に籾をまき、稲が実り、また籾となって稲が育つ。水を張りさえすれば、
水田はずっと使えます。大事なのはこの循環です。
その人工的な循環は、あくまで雨が川となり、海に注いで蒸発し、雨になって
また大地を潤すという、自然循環の大きな輪のなかでこそ保障される循環なのです。
持続性のある自然の大きな循環のなかで生命は育まれます。
それが平和のベースなのです。

潜在意識はアニミズムのビジョンを好む

さて、結論です。
潜在意識にもたらされたビジョンは、3Dのアニメーションとなって現実化されます。
潜在意識は判断力を持たず、顕在意識の思いがそのまま反映されるといわれ
ます。一口に潜在意識といっても、顕在意識のすぐ下の浅い部分から、「思いを
現実化させるスクリーンの」最深部まで、潜在意識にはいくつかの階層があります。

顕在意識のビジョンがそのまま反映されるとはいえ、潜在意識の浅い部分(上層部)
には、様々な既成観念や、自分でもわからない抑圧意識があるのもまた事実です。
それをクリアしなければ、いくら願望を念じたところで、潜在意識の実行指令とは
ならないのです。だからこそ、「思いは実現する」といっても、なかなかそう簡単には
うまくいかないわけなのです。

我欲のみを追求するとき、人は案外制限がかかるものです。とくに日本人はその
傾向が強い民族です。自分の田んぼにだけ水を引いて、自分だけが潤うというのは
気が引ける、というのがやまと心の気質です。

自然環境から隣人まで、すべてに自分と同じ霊性を見るアニミズムにとって、
その潜在意識は、利己より利他の行いのほうがすんなり受け入れられる心の構造に
なっています。
成功法の極意は、自分だけの幸福を祈るのではなく、自分の幸福が同時に他人の
幸福になるようなビジョンを企図することです。俗っぽくいえば、一人勝ちではなく、
みんながウィンウィンになる企画です。

前にもいいましたが、自分と同じ価値観以外の他者を認めない一神教は、
顕在意識の思念が強力なので、潜在意識へ書き込む力が強く、そのぶん願望は
実現しやすいといえます。しかし、体内に入った異物が免疫で攻撃されるように、
やがてそれは攻撃され消滅します。持続力が弱いのです。

老舗企業の数は日本が断トツ一位

代々続く老舗企業は、日本が一番多くあります。
帝国データバンクのリサーチによると、2014年現在、100年続く日本の企業は
2万7335社となっています。そんなにあるんですね! しかし、個人商店や小規模
な会社を含めると10万以上とも推測されています。
200年を超える企業は3000社以上あり、その半分以上が日本企業で、2番目に
多いドイツの倍ほどあります。
それどころか、世界最古のトップ3が日本の3社で、トップ10のうち7社を日本が占め
ています。1位は大阪の金剛組(578年創業)。2位は池坊華道会(587年)。
3位は山梨県の西山温泉慶雲館(705年)となっています。

美田は遺せ

「子孫に美田を残さず」ということわざがあります。美田というのは財産のことで、
財産なんか残したら子孫が自立しないからやめておけという教訓です。
老舗は美田です。社会に貢献しているような美田なら残すべきです。それでは
子孫が怠け者になる、というなら「かわいい子には旅をさせろ」で、しばらくよその
会社で汗をかかせておけばいいでしょう。

前のテーマ(先祖供養)でも書きましたが、老舗には必ず神棚も仏壇もあって、
先祖の供養は欠かしません。その先祖は、遠い別の世界に去るというのではなく、
近くの山から常に子孫を見守っている、というのが日本土着の死生観です。
自然はあらゆる精霊に満ち、先祖のお御霊も年ふると共に、神々の一員となって
山の高みに昇っていくと考えられてきました。

マタギが山に入るときは、山の神にお神酒を捧げ、家を建てるときはいまなお
都会の真ん中でも地鎮祭が欠かせません。その考えこそアニミズムの精神であり、
本来、自然の収奪(環境破壊)などありようがないのです。江戸の下町の人糞を
田畑に運んで肥料にするという循環型の環境維持も、そのやまと心と無縁では
ありません。その共生の心に合致する願望ほど、現実化マシンの潜在意識に
すんなり受け入れられるのです。

どうせなら大欲を

個人的な自分の願望とはいえ、自分だけが潤うのではなく、周囲も潤す。
和をもって貴しとなす、です。そんな利他を心がけていると、それが人徳となり、
やがて得となって返ってきます。
どうせなら、そういう願望を考えたほうが得策です。
電球を発明したエジソンも、自分の商売もあるでしょうが、世界の夜を照らしたい、
という大きな願望があったはずです。そういう壮大な利他の夢ほどもうけも大きい
のです。
徳は得なり――。徳得ればカネうなるなり法隆寺(お粗末)。
みんなが、和ッハッハッ、と笑える願望ほど現実化を呼ぶ。
笑う門には福来たる、そう思いましょう(笑)