一神教vsアニミズム

アニミズムは成功法のベースである

ずいぶん更新が滞ってしまって恐縮です――。

さてさて、今回は、安田喜憲氏の『一神教の闇』をベースにして、
「一神教VSアニミズム」をテーマにします。
長くなりそうなので、まず結論から先にいいます。

◆一神教は争いを生む人工的な思想であり、これからは万物に魂が宿るとみなす
アニミズムの時代である。アニミズムは環境破壊の歯止めにもなり、戦争抑止の
平和をもたらす力ともなる。それが1つ。

◆また、成功法においても、アニミズムの心こそ、自分の思いを潜在意識の
キャンバスに抵抗なく描きやすく、さらにそのイメージはより深く浸透する。
いったんそれが浸透すれば、無理なく持続され現実化されるのである――。

つまり、平和と現代の環境問題にとって、アニミズムの精神が欠かせなく、
さらに個々人の成功を持続させるにも、昔から万物に魂を見るアニミズム的
世界観が大いに有効なのです。
私たち日本人の「やまと心」は、そのアニミズムに源流があるのです。

日本人は霊性豊か

よく日本人は無宗教だといわれます。
でも、宗教心はけっこうあるんですね。けっして唯物論ではありません。
お盆には墓参りに行き、正月には神社に初詣。家には神棚や仏壇がありますし、
クリスマスどころか、最近はハロウィンだって祝います。
まあ、クリスマスやハロウィンはただのフェスティバルですね。とはいえ、
お釈迦さんと一緒にイエス・キリストを信じている人はけっこういるでしょう。
1つの宗教に固執し、神はひとつだと信じ込んでいる世界の常識からすると、
そんな節操のないのは宗教心とはいえない、だから無宗教だというんだと、
かえってお叱りを受けるかもしれません。

宗教心でなければ、死んでそれで終わりにならない、物質(肉体)を超えた
存在があることを漠然と信じているといえばいいでしょうか。
その存在を伝統的な言葉でいえば、霊といい魂といいます。いずれにしろ、
肉体は滅びても、自分という意識は継続されるという考えです。
とくに人工的な宗教などの教えを受けなくても、そのような霊的心性が備わって
いるのが日本人の心なのです。

アニミズムとは?

さて、宗教は、大まかにいって、一神教と多神教の二つに分かれます。
一神教の代表は、ユダヤ・キリスト教、イスラム教であり、多神教には、
八百万の神がいるわが神道やインドのヒンドゥー教、多くの仏菩薩がひしめく
仏教などがあります。

その多神教のなかでも、世界のすべて、生きとし生けるものすべてに霊性が
宿っているという考えを「アニミズム(animism)」といいます。仏教的にいえば、
草木悉皆成仏です。

アニミズムとは、アニマ+イズムです。このアニマ(anima)というのは、アニマルや
アニメーション(animation)のアニマであり、ラテン語で気息、生命、霊魂という
意味です。ただの絵や人形を、生きて動いて見えるように命を吹き込んで動画に
したというのがアニメーションです。

アニミズムは、西欧の一神教の世界観からすると、原始人の幼稚で猥雑な迷信
であり、唯一絶対の創造主が君臨する一神教の世界観のほうが高級な観念だと
思われてきました。
また、それが宇宙の真理であり、信ずるに足るべき実在だとみなしているわけです。
たしかに幼児の絵は、太陽や月、山や川、草花や虫、道端の石ころのはてまで
人格化して描きます。アニミズムとは、そのような幼稚な考え、未開の原始心性
だとみなすのです。しかし、アニミズムは本当に幼稚な観念なのでしょうか?

一神教は洗脳によって信仰力を生むのだが

聖書神話に代表されるように、一神教には劇的な物語があります。ノアの箱舟、
バビロンの塔、モーゼの出エジプト、ジェリコの戦いなど。映画の『十戒』や
『ベン・ハー』の大スペクタルは、娯楽としても大いに楽しめます。
人間は、音楽の旋律がスッと頭に入って記憶されるように、壮大で感情に訴える
ドラマは、胸の奥に響きます。イエスが人間の原罪をあがなうために十字架に
かけられたという話などは、まるでオペラのように劇的で、人間なら心が動かされ
ないわけがありません。

一神教の物語を信仰する強い信仰心は、精神集中を高め、潜在意識のキャンバスに、
ビジョンを刻む力も強くなります。
心の奥に、まるで実在するかのように、信じれば褒美をくれる神だって作り上げ
てしまうでしょう。その意味では、創造神話のある一神教のほうが有利です。
一神教の西欧が科学技術に優れていたのもそのおかげです。

闘争に勝つにも、自分には正義の絶対神が守ってくれているんだと思い込める
ほうが頑張れます。神が指揮する勇ましい軍艦マーチが鳴っていれば、高揚も
するでしょう。願望を叶えてくれる潜在意識の馬を調教するには、一神教神話に
よる信仰はいい鞭になるのだと思います。神は麻薬なのです。

アニミズムのほうが潜在意識へ深く入り込む

しかし、自然環境を含めた他者のすべてに自分と同じ魂を見、他者の幸福を
自分の幸福だとみなす心のほうが、そのビジョンはより自然に潜在意識の奥へ
深く浸透します。刻み込む筆力は、一神教の信仰力のほうが上手ですが、
万物同根のアニミズムのほうが根強いのです。

一神教は、ジャングルを切り開いてビルを建てるパワーがありますが、
メンテナンスを怠ると、遠からずそれはまた森林に飲み込まれてしまいます。
いうまでもなく、生命に満ち溢れたそのジャングルこそアニミズムです。
願望のビジョンを描く潜在意識のキャンバスには、ムチよりもアメ、北風より
太陽のぬくもりのほうが、よい絵の具になるのです。

一神教の闇

旧約聖書で、人間は神から、自然とすべての生き物を支配していいと許されます。
そのせいか、西欧に進出したキリスト教徒らは、牧畜を営み、森林をどんどん
伐採して山林を丸裸にしていきます。

『一神教の闇』で、安田喜憲氏は、この一神教の人々を「牧畜狩猟民族」と呼び、
自然環境を大事にするアニミズムの人々を「畑作漁労民」と読んで対峙させます。
近代科学の魔術を手にした一神教の牧畜狩猟民族は、近代以降、いっそう自然
環境を破壊していくことになります。
自然環境と共生するのがアニミズムの精神であるのに対し、一神教の徒にとって、
自然環境は人間が利用するべき対象でしかなかったのです。
一神教は、自然を人工的に改変していく馬力は強くても、同時にそれは自然の
破壊にもつながる諸刃の剣です。安田喜憲氏はこう述べます。

 

もっとも恐ろしいのは、超越的秩序の宗教に導かれた妄想を実現するためには、
たとえ人間の命が犠牲になってもかまわないと考えることである。神の国の実現
のためには自らの命を投げ出してもかまわない。他者の命を奪ってもかまわない
と考える。そして神の国においてかならず祝福されるという妄想を抱く。そこが
問題なのである。たとえば宗教的信念にもとづくテロによって、どれだけの尊い
命が奪われたことか。
キリスト教は(そしてイスラム教も)、一神教の闇という幻想の世界を作り上げた。
(中略)この幻想によって一神教の国を作り上げる行為は、仮想敵としての共産
主義の悪やテロリズムをでっちあげる行為と根は同じである。それは自らの主義
主張に相反するものを力で叩き潰すという行為を容認し、支援しているのである。
こうした文明観を根底的に改めないことには、世界に平和は訪れないのではある
まいか。
イスラム国家がテロリズムの巣窟であるという幻想を作り出したのも、アメリカの
新保守主義の「キリスト教原理主義者」たちであった。イラクのサダム・フセインが
大量破壊兵器製造しているという幻想をふりまき、人々を恐怖に陥れたのも彼らの
策略である。しかし、それは仮想敵をでっちあげる口実にすぎなかった。
その行為は、砂漠の民が神の国を妄想し、五百年前にはキリストの神の祝福を
普及するという口実のもとでインディヘナの人々を虐殺・征服し、アズテクの文明や
インカ文明を崩壊させたスペイン人の行為と何も変わるところがない。
変わったのは、その妄想の波及効果によって生まれる死者の数が、さらに追加
されたことだけだ。
「キリスト教原理主義」と闘う「イスラム原理主義者」もまた、幻想の超越的秩序の
世界に生きる人々である、神の国という幻想の世界を信じ、聖戦によって命を
投げ出したものは神の国に召されるという信仰を信じる人々である。
自爆テロは、こうした人間が作り上げた妄想に命を投げ出す行為でしかない。

インディヘナ――スペイン語で「原住民」の意

 

ひとり子を生け贄として差し出せと命じる神

旧約聖書の創造神であるヤハウェは、自分で嫉妬深い神だと吐露しているように、
他宗教の神への色目を許しません。異教も異教徒も、殲滅の対象なのです。
ヤハウェは、たえず信仰者にその忠実さを試します。その忠心を義といいます。
私がこれはついていけないなあ、と思ったのは、有名なアブラハムのエピソードです。
日本人なら誰でもそう思うでしょう。

アブラハムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の始祖に当たる重要人物であり、
「信仰の父」と呼ばれています。
アブラハムには子がなく、100歳にしてやっと子供イサクが生まれます。
ヤハウェはアブラハムの忠義を試すために、そのイサクをいけにえとして差し出せと
命じるのです。すなわち、「全焼のいけにえとしてわたしに捧げなさい」と。
全焼というのは、羊の丸焼きのように焼いて捧げろというわけです!
しかし、神への義に篤いアブラハムは、ひとり子を差し出すことに何の躊躇もない
のです。

祭壇の薪の上にイサクを縛って寝かせ、刀を手にしてまさにわが子に手をかけようと
したとき、天使が現れてこういいます。
「その子に何もしてはならない。いま、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
あなたは、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしに捧げた」

はたしてこれは義なのでしょうか?アブラハムに、何のためらいもないというのも、
信仰のロボットのようで、おぞましさを覚えます。そこで葛藤してこそ、義の価値がある
のではないか。葛藤がないのだとしたら、思考停止か妄信と変わりありません。
宗教にとって、何の疑念もなくストレートに信じる者は、素直な魂として尊重されますが、
それは盲信と紙一重です。

母親を見捨てられなかった杜子春

一方、『杜子春』という芥川龍之介の小説があります。これは、中国由来の物語
『杜子春伝』を芥川龍之介がアレンジしたもので、国語の教科書にもよく載っている
のでどんな話か知っている人は多いでしょう。

唐の都洛陽で、若者杜子春が鉄冠子という名の仙人と出合い、その仙術を習うために、
峨嵋山の頂上で試練を受けることになります。
試練というのは、「様々な魔物が現れて脅そうとするが、たとえ何が起きてもけっして
声を出すな」というものでした。もし一言でも口を利いたら一発落第で、仙人になる
資格はないというのです。

虎や大蛇に襲われ、雷に打たれても杜子春は禁を守って黙し続けます。
ついには神将の槍に突かれ、地獄に落ちても無言のままです。
閻魔大王に問われても口を開かず、鬼らのあらゆる責め苦にあっても黙ったままでしたが、
最後に彼の前に亡き両親が引きたてられるのです。
鬼どもに鞭を浴びせられて瀕死となりながらも、「私たちはどうなってもいい。お前が黙って
いたいならそうしなさい」といってわが子を思いやる母親に、さしもの杜子春も思わず声を
漏らしてしまいます。
オチはもうおわかりでしょう。
そこで、鉄冠子が現れてこういいます。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」

これはたんなる小説です。そういえばお釈迦さんも、七年もの苦行ののち、
菩提樹の下で成道(覚醒)するに至った最後の瞑想を始めると、様々な悪魔が姿を
変えて現れ、脅したり誘惑したりしたものです。
しかし、お釈迦さんの場合は、それをことごとく幻覚だと退け、心を平静に保ち続けた
ことによってブッダとして覚醒したという正反対の話ではありましたが。
まあ、お釈迦さんの場合は、誰からも課されたのではない主体的な行なので、
正反対にもなるのでしょう。

神が試練を与えるとき、もし杜子春の世界なら、アブラハムの思考停止の帰依は、
それだけでアウトです。
信仰の対象に値するのか否かというのはともかく、私が信仰の対象にしたいのは、
やはり人の情を無視した無条件の忠誠を求める神より、人情味のある仙人のほうです。
同じ生命、同じ霊魂という意味では、仙人も老母も等価値なのです。
仙人が神でも同じです。老母も地を這う虫けらも、自然の一員、地球の一員、宇宙の
一員ということで当価値であり、神道的にいえばみな神の分け御霊、すなわち神なの
です。それが万物同根のアニミズムです。

一神教の狂気

一神教というのはあくまで神への義、忠誠が最優先で、それがすべての正義で
あり善だという設定の上に成り立っています。神からのどんな難題にも、平伏して
それを実行しなければなりません。
もしそれを拒めば、罰が与えられ地獄に堕ちます。信仰を試すため子供の生け贄を
命じたり、自爆テロを起こすことより、さらにおぞましかったのは、数年前のニュースでした。

――それはアフガンで8歳の娘が爆弾入りの小包を警察へ運ばされ、爆死したという
報道でした。わずか8歳の娘が、爆弾を運ばされて爆死したのです。
おそらく少女は、たんにテロリストらの目に止まっただけで、これから自分の身に何が
起こるかも知らないまま瞬時に肉片となったのです。
娘に爆弾を運ばせるという行為だけでも身の毛がよだったのですが、当初、
それでも爆弾は時限爆弾か衝撃でスイッチが入るものだと思っていたのです。
しかし、それはリモコンで爆発させられたというではありませんか。少女に爆弾を
運ばせて、自分は安全な場所に隠れていて、ただスイッチを押す。
少女には親も兄妹もいたはずです。その嘆きを、犯人らは自分に置き換えて想像
しないのでしょうか。娘の哀れさはもちろん、神でさえその所業に背筋を凍らせたのでは
ないかと思います。

もし、神も嘆かないのだとしたら、神とは一体なんなのか?
すべてに自分と同じ魂が宿るとみなすアニミズムの民には、想像すらできない
ことです。
われこそは唯一無二の神だと宣言し、他は邪教、われを信じれば救われると説く
宗教は狂気そのものであり、それを丸ごと信じて多民族のジェノサイドをはかる
などというのは、狂気の感染者といっていいでしょう。

よきサマリア人のたとえ

旧約聖書はともかく、新約聖書のイエスは、このような狂信も選民思想もなく
なっています。キリスト教の名誉のために、それを断っておかねばなりません。
イエスは「自分のように隣人(となりびと)を愛せ」と説きます。そうすれば永遠の
いのちが得られるというのです。

「では、私の隣人とは、だれのことですか?」とユダヤ人の律法学者が問います。
そんなストレートな質問をはぐらかして、イエスはおよそこんな話をします。

――強盗に身ぐるみ剥がれ、ケガをして倒れている旅人がいる。その側を祭司が
通りかかったが、祭司は見ないふりをして通り過ぎた。同じくレビ人も見ないふりを
して過ぎ去った。3人目にやってきたサマリア人は、瀕死のその男をあわれんで
介抱する。傷口にぶどう酒とオリーブ油を注ぎ、包帯を巻いて旅館に運んでやる
のだった(ルカ10.29~37)――

この話のあと、イエスは律法学者に問い返します。
「この3人のなかで、だれが強盗に襲われた者の隣人となったと思いますか?」
律法学者は答えます。
「その人にあわれみをかけてやった人です」
するとイエスはいいます。
「では、あなたも行って同じようにしなさい」

このやりとりを文字通りに考えれば、困っている人に手を差し出す人が隣人に
なるわけです。しかし、そんな自分にやさしくしてくれる人を愛せよ、なんていえば、
ずいぶんつまらない話になってしまいます。たとえば、イエスと律法学者の会話を
勝手に補足させてもらうと、こんな感じになるでしょうか――。

律法学者は答えます。
「その人にあわれみをかけてやった人です」
「フム…」
うなずくイエスに、律法学者は、さも嬉しそうにこういうのでした。
「では、どんな人にも分けへだてなく手を差し伸べる優しい人を、自分のように
愛することにします!」
するとイエスはいいます。
「そうじゃなくてね」
「は?」
「それじゃ当たり前でしょ。そのサマリア人のように、あなたも外に出て同じように
しなさいってことですよ」

おまえ自身が隣人となれ

さすがにイエスの答えは、ひねりがあって、愛する対象は誰か? なんていう問いに
単純には答えません。
隣人は誰かと問うヒマがあるなら、あなた自身が隣人となれ、というのです。
この律法学者とイエスのやりとりや、たとえ話を用いた「隣人とは誰か?」
という問答はけっこう解釈が難しいです。私も理解に苦しみました。
まず、これは一般人との問答ではなく、律法学者というユダヤ教のエキスパート
との問答だということです。それが大前提になります。

このサマリア人というのは、ユダヤ人とアッシリア人との混血で、当時ユダヤ人に
迫害されていた少数民族です。また「レビ人」は特別な存在で、ユダヤ人の中で
祭司と共に神殿の仕事に就ける一族です。つまり、神に仕えられる血筋のレビ人が、
瀕死の人を見捨てたのに、サマリア人だけが親切だったわけです。
そんな卑しいとされるサマリア人であっても、打算なく、宗教を超えて人に
あわれみをかけられる人間はいるものです。そのような人に、神の国の門は開かれ
ているというのが、まず一般的な解釈です。
親兄弟、同胞を愛するのは当たり前、忌み嫌う異教徒にも親切にしてこそ神の道
だということで、イエスの博愛が示されているという解釈が生まれます。

でも、それだけではないんですね。やはり「隣人」というのが曲者です。
おそらく、律法学者は隣人を同胞などの狭い範囲にしたかったのでしょう。
そうしたほうが異教徒や罪人を愛するよりずっと簡単ですから。
しかし、隣人となったこのサマリア人は、「あわれみ」を覚えたり、ぶどう酒と
オリーブ油を注いだりしたということから、どうやらキリストを暗示しているようなのです。
つまり、たんなる博愛だけの話じゃないということです。
律法学者も救世主(キリスト)を待つユダヤ教内部の人間です。彼らに対して、
ユダヤの神と救世主を愛せというのは当然であって、これでは教えになりません。

ところが、イエスは、おまえ自身がキリストのあわれみを実践しろと説くんですね。
学者として重箱の隅をつついて聖書解釈しているのではなく、外に出て愛の
隣人となれと。
それが隣人(イエス)を愛せ、おまえ自身が隣人となれという意味なのでしょう。
光を愛すること。その究極は、自分が光になることです。

よきサマリア人のたとえを肌でわかっているのがアニミズム

「啓典宗教」というように、一神教は伝承された神の言葉(テキスト)によって
人々を啓蒙しなければなりませんでした。
それに対して、アニミズムには聖典もなければ教育もありません。そんなことはみな、
肌で、直感で知っているのです。忠誠を誓わなければ罰が与えられる、おそれ多い
神という、肉体を超えた霊的存在を教え込まれなくても、自然環境には霊的な
存在が満ち溢れていることを知っていました。

私たち日本人は、山深い神社の境内に、下界にはない神々しい気配を感じます。
私たちにとってはそれが神なのです。それもまたおそれ多い神です。
山も神、川も神、クマやサケも神。狼はまさにオオカミ。巨木も神として注連縄を巻き
ますし、路傍の石仏も神なので、だから寒そうな地蔵にあわれみを覚えて傘を被せて
やるわけです。その寒さを、自分の寒さのように肌で感じたからです。
偶像崇拝を低俗と見る一神教には、まずありえない感性です。

和の民

「和の民」なんていうと、どこかの居酒屋チェーン店みたいですが、アニミズムは、
世界各地の民族にいまなおけっこう継承されています。
604年に、すでに聖徳太子は「十七条憲法」の第一条において、「和をもって貴し
となす」と宣言しています。
和というのは、協調を意味します。平和の和であり、和食というように、日本を表す
言葉でもあります。

漢字の和の語源は、「のぎへん」に「口」で、「稲を口にする」という意味だといいます。
つまり、和国というのは、稲を口にする国を表しているのでしょう。
たしかに、瑞穂の国というように、日本文化にとっては、稲作を抜きには語れません。
これが日本人の精神のベースにあります。田んぼ作りは、自然を収奪する西欧の
牧畜とは違って、循環する自然との共生がなければ始まりません。
田んぼは、循環する自然のひな型なのです。

水田は、川から水を導きます。川の水には、清流によって山の滋養が運ばれます。
川から導いた水路は、それぞれの田んぼを潤しつつ、下流の田んぼへと次々に
流れていきます。上流の自分だけが水路を独占するわけにはいかないのです。
稲作の民は、共有、共生、協調という観念が自然に芽生えます。米の煮える焚き火を
囲み、車座になって和(なご)やかに食を共にする。輪になって和むのです。
神から教わらなくても、自分が隣人でなければならないことをアニミズムの民は
知っています。

森を伐採し、牧草地を広げていくだけの収奪では、やがて土地は砂漠化します。
水田に籾をまき、稲が実り、また籾となって稲が育つ。水を張りさえすれば、
水田はずっと使えます。大事なのはこの循環です。
その人工的な循環は、あくまで雨が川となり、海に注いで蒸発し、雨になって
また大地を潤すという、自然循環の大きな輪のなかでこそ保障される循環なのです。
持続性のある自然の大きな循環のなかで生命は育まれます。
それが平和のベースなのです。

潜在意識はアニミズムのビジョンを好む

さて、結論です。
潜在意識にもたらされたビジョンは、3Dのアニメーションとなって現実化されます。
潜在意識は判断力を持たず、顕在意識の思いがそのまま反映されるといわれ
ます。一口に潜在意識といっても、顕在意識のすぐ下の浅い部分から、「思いを
現実化させるスクリーンの」最深部まで、潜在意識にはいくつかの階層があります。

顕在意識のビジョンがそのまま反映されるとはいえ、潜在意識の浅い部分(上層部)
には、様々な既成観念や、自分でもわからない抑圧意識があるのもまた事実です。
それをクリアしなければ、いくら願望を念じたところで、潜在意識の実行指令とは
ならないのです。だからこそ、「思いは実現する」といっても、なかなかそう簡単には
うまくいかないわけなのです。

我欲のみを追求するとき、人は案外制限がかかるものです。とくに日本人はその
傾向が強い民族です。自分の田んぼにだけ水を引いて、自分だけが潤うというのは
気が引ける、というのがやまと心の気質です。

自然環境から隣人まで、すべてに自分と同じ霊性を見るアニミズムにとって、
その潜在意識は、利己より利他の行いのほうがすんなり受け入れられる心の構造に
なっています。
成功法の極意は、自分だけの幸福を祈るのではなく、自分の幸福が同時に他人の
幸福になるようなビジョンを企図することです。俗っぽくいえば、一人勝ちではなく、
みんながウィンウィンになる企画です。

前にもいいましたが、自分と同じ価値観以外の他者を認めない一神教は、
顕在意識の思念が強力なので、潜在意識へ書き込む力が強く、そのぶん願望は
実現しやすいといえます。しかし、体内に入った異物が免疫で攻撃されるように、
やがてそれは攻撃され消滅します。持続力が弱いのです。

老舗企業の数は日本が断トツ一位

代々続く老舗企業は、日本が一番多くあります。
帝国データバンクのリサーチによると、2014年現在、100年続く日本の企業は
2万7335社となっています。そんなにあるんですね! しかし、個人商店や小規模
な会社を含めると10万以上とも推測されています。
200年を超える企業は3000社以上あり、その半分以上が日本企業で、2番目に
多いドイツの倍ほどあります。
それどころか、世界最古のトップ3が日本の3社で、トップ10のうち7社を日本が占め
ています。1位は大阪の金剛組(578年創業)。2位は池坊華道会(587年)。
3位は山梨県の西山温泉慶雲館(705年)となっています。

美田は遺せ

「子孫に美田を残さず」ということわざがあります。美田というのは財産のことで、
財産なんか残したら子孫が自立しないからやめておけという教訓です。
老舗は美田です。社会に貢献しているような美田なら残すべきです。それでは
子孫が怠け者になる、というなら「かわいい子には旅をさせろ」で、しばらくよその
会社で汗をかかせておけばいいでしょう。

前のテーマ(先祖供養)でも書きましたが、老舗には必ず神棚も仏壇もあって、
先祖の供養は欠かしません。その先祖は、遠い別の世界に去るというのではなく、
近くの山から常に子孫を見守っている、というのが日本土着の死生観です。
自然はあらゆる精霊に満ち、先祖のお御霊も年ふると共に、神々の一員となって
山の高みに昇っていくと考えられてきました。

マタギが山に入るときは、山の神にお神酒を捧げ、家を建てるときはいまなお
都会の真ん中でも地鎮祭が欠かせません。その考えこそアニミズムの精神であり、
本来、自然の収奪(環境破壊)などありようがないのです。江戸の下町の人糞を
田畑に運んで肥料にするという循環型の環境維持も、そのやまと心と無縁では
ありません。その共生の心に合致する願望ほど、現実化マシンの潜在意識に
すんなり受け入れられるのです。

どうせなら大欲を

個人的な自分の願望とはいえ、自分だけが潤うのではなく、周囲も潤す。
和をもって貴しとなす、です。そんな利他を心がけていると、それが人徳となり、
やがて得となって返ってきます。
どうせなら、そういう願望を考えたほうが得策です。
電球を発明したエジソンも、自分の商売もあるでしょうが、世界の夜を照らしたい、
という大きな願望があったはずです。そういう壮大な利他の夢ほどもうけも大きい
のです。
徳は得なり――。徳得ればカネうなるなり法隆寺(お粗末)。
みんなが、和ッハッハッ、と笑える願望ほど現実化を呼ぶ。
笑う門には福来たる、そう思いましょう(笑)

気配の正体は「準静電界」

誰にでもある超能力

日経の電子版に興味深い記事がありました(2015/7/20)。
タイトルはこうです。

何となく感じる「気配」の正体? 「準静電界」とは
サメやナマズが持つセンサーが人間にも

今回は、前回の続きで「宇宙エネルギー」についてお話しするつもりでしたが、
それは後回しにして、この記事を紹介させていただきます。

オカルト話や超能力は信じないという人でも、気配を感じるというのは案外あるの
ではないかと思います。

いままでそこに誰かいたような気がする。
ドアの向こうに誰かいるような気がする。
足音もしないのに、背後から人が近づいてくるような気がして振り向けば、
やっぱり人がやってきた。

武術ではこれが付きものです。よくありますよね。囲炉裏にかけた鍋の様子を見て
いる男の背後から、曲者がそっと忍びよって手裏剣を放つと、とっさに手にとった
鍋蓋で手裏剣は防御されてしまうという。まるで背中に目がついているように、
闇討ちも難なくかわされてしまいます。
武人につきものの能力というか、武術の達人は、この殺気の感知能力に優れて
いることによって達人足りうるのです。

合気道の達人は弾をもよける

合気道の創始者、植芝盛平などは、素手で剣道の高段者を打ち負かしたといいます。
剣先から白いモヤのようなものが飛んでくるので、それをかわして懐に入り込めば
いいのだということです。
これは銃でも同じで、弾の前に白いモヤが飛んでくるので、それをかわせば済む
といって、じっさい、それをやってのけたといいます。ただし、野生動物と真剣
勝負をしているマタギに銃を構えられたときは、あなたの弾は当たる、といって
降参したのだとか。マタギも達人だったのでしょう。

武術気功では、これは不思議でもなんでもなく、相手の「気」が察知されたのだと
解釈されます。心眼というのは、まさに気配を感知するレーダーなわけです。

その「気配」について、科学的なアプローチがされています。
日経の記事では、東京大学生産技術研究所機械・生体系部門特任准教授の滝口清昭
氏のレポートを紹介しています。それによると、気配の正体は「準静電界」ではないか
というのです。「準静電界」というのは、私たちの体の周りを覆っている「電気の膜」の
ことです。

もっとも「気」には、電磁波も認められているので、この「準静電界」というのも、
これまで人がその五感以外のセンサーとして使ってきた気の一種なのかもしれません。
武術の達人とまではいかなくても、私たちの第六感のようなものも、とくに超常現象
ではなく、誰にでもある電気的なセンサーではないかと考えられるわけです。

では、長くなりますが、転載させていただきます。

■人が帯びている「準静電界」が気配の正体?
「人間の体の周囲には、静電気のような、ごく微弱な電界が全身を包むように
存在しています。電界の大きさやプラス・マイナスが常に変化しており、これを
『準静電界』と呼びます。気配と呼ばれるもののすべてはないにしろ、一部に
ついてはこの準静電界が関係していると考えています」と滝口さん。
体の中では、常に微弱な電気が生じている。筋肉を動かす、脳が体に指令を出す、
心臓などの臓器が働く、さらには細胞と細胞が情報伝達するといった場面でも、
電気的な信号が生まれる。例えば、脳波や心電図、筋電図などは、脳や心臓、
筋肉に流れる電気信号を“見える化”したもの。体内で発生する電気信号は、生命
活動そのものでもある。このような体内にある微弱な電気が重なり合い、体の
外側ににじみ出て、見えない電気のベールで全身を包み込んでいる。
これが準静電界だ。

準静電界は、電波のように空気中を伝わることはなく、人体の周囲にとどまり、
そこで強まったり弱まったりといった変化を繰り返 しているという。準静電界は、
人間だけでなく、動物や植物など、生物すべてが持っている(生体電位とも呼ばれ
る)。ただし、非常に弱いので感知するのは難しいそうだ。

■サメやナマズは鋭敏に準静電界をキャッチ
「ところが、この準静電界のごくごく微弱な電位を感知できる動物がいるのです。
サメやエイ、ナマズなどの魚類、またオーストラリアに生息する哺乳類のカモノハシ
などです。これらの生物の体には、準静電界を感知する“電界検出センサー”が
備わっており、このセンサーを使ってエサを捕まえる。視界や嗅覚が利かないよう
な環境下でも、これなら高精度にエサを認識し、捕まえることができます。
このセンサーは視覚や聴覚などよりも古い、非常に原始的な感覚器だと考えられ
ます」(滝口さん)
例えばサメの場合、3メートルほど離れた場所から、砂の下40cmくらいのところ
に潜んでいるヒラメを検知することができるという。光が届かない深海でも、
ヒラメが身にまとう準静電界を鋭敏にキャッチして忍び寄り、アタックするわけだ。
ちなみに、通信用の海底ケーブルがサメにかじられて問題になったことがあったが、
「ケーブル周囲に発生する電界をエサの魚と勘違いしたようです。
最近は、サメからの襲撃を防ぐため、 ケーブルの周囲に電界が漏れないような工夫
が施されています」と滝口さん。

では、その電界を検出する器官はサメのどこにあるのだろうか。滝口さんはこう
説明する。「サメの頭部には、電界を感知する小さな穴がいくつも開いています。
この穴が、『ロレンチニ瓶(びん)』と呼ばれる電気受容器です。ロレンチニとは、これを
発見したイタリアの学者の名前、瓶はこの穴がフラスコのような形をしていること
に由来します。穴の奥には複数の有毛細胞があり、これらが超高感度で電界を感知
し、それをさらに高電圧で増幅させて認識していると考えられます。
実は、このロレンチニ瓶に似た器官は、我々人間にも存在します。それが耳の奥に
ある内耳です」

■人間の気配センサーは内耳と体毛?
内耳には、カタツムリの形をした「蝸牛(かぎゅう)」という器官があり、聴覚をつかさ
どっている。この中には“毛”の生えた細胞、つまり有毛細胞があり、外から入って
きた音を振動として捉え、電気信号に変えて神経に伝えている。そう、ここにも
ロレンチニ瓶と同様の有毛細胞があり、盛んに電気活動が行われているのだ。
「人体の中で一番電圧が高い組織は、この内耳。脳や心臓よりもはるかに高い
電圧が常時生じています。私たちは、この内耳がロレンチニ瓶の名残ではないか
と考えています」と滝口さんは話す。
ここで、冒頭の「気配」の話に戻ろう。つまり、この“毛”もあって、電圧も高い内耳
こそが、人間においては準静電界を感知する器官ではないかと、滝口さんらは考え
ているわけだ。

「世の中には、流星の音が聞こえたり、星が流れる気配が分かったりする人がいて、
流星観察の場で重宝されています。ある調査では、大学生の約2割が聞こえたり、
感じられたりするそうです。こうした人たちが、もし内耳で電界の変化を検知して
いるとしたら、音が聞こえることと、電界の変化を検知して気配を感じられることは、
同様の現象だといえるのかもしれません」(滝口さん)

また、内耳以外に“体毛”も準静電界を感じやすいという。特に、細かい産毛は電気
刺激に対して敏感だ。「総毛立つ」とか、「鳥肌が立つ」などという言葉があるが、
気配を察知する力は一種、皮膚感覚に 近いのかもしれない。滝口さんは、「産毛の
多い子供や女性は、気配を感じやすい傾向がある」と話す。

■犬や猫も人の近づく気配に敏感
ところで、ペットを飼っている人なら、犬や猫などの気配察知能力に驚かされる
のではないだろうか。「うちのワンコ(あるいはニャンコ)は、自分が家に帰り着く
ちょっと前から、玄関で待っているようだ」といった話を耳にする。犬や猫も、
飼い主の準静電界をいち早く感じ取っているのか。なかには、何メートルも離れた
ところにいる飼い主の気配を察知して、尻尾を振って待っていることもるという。
しかし、そんな離れた場所から、どうやって気配が分かるのだろうか。

「歩行時には、体にまとっている準静電界も一緒に動きます。また、片足を上げる
たびに、地面との距離が離れることで、人の電位が増幅 されます。つまり、じっと
しているときよりも動いているときの方が、人が作る準静電界の変化が大きいのです。
私たちの実験では、アスファルトの路面を歩いているときには、20~30メートル
先にまで、その電位の変化が伝わることが確かめられています」と滝口さん。

なるほど、だから犬や猫は飼い主が家にたどり着くかなり前から、その気配を
察知できるのかもしれない。しかも、滝口さんによると「歩き方には人それぞれ、
固有のパターンがある」という。ペットの犬や猫は、それを認識し、飼い主で
あると分かったうえで、玄関で待っている可能性があるわけだ。なんとも、いじ
らしいではないか!

気配というと、これまではちょっとオカルト的で非科学的だというイメージを持たれ
がちだったが、少しずつ科学的な解明が進みつつある。滝口さんらは準静電界を
利用した通信や医療器具などの開発にも取り組んでいる。“気配のモト”が、
最先端の科学になる日もそう遠くはないのかもしれない。
(佐田節子=ライター)

ヒーラーズラボのスローガン――「気も工業化の時代に入った」の裏打ちか!?

「世の中には、流星の音が聞こえたり、星が流れる気配が分かったりする人がいて――」
ということですが、私も2001年の「しし座流星群」がやってきたときに、これを体験したの
です。
11月19日午前3時過ぎに、一番大きな流れ星が走ったときには、ヒューという音が聞こえ
て、青白い光球が大気の摩擦で拡大したときには、ボッ、という音が聞こえたような気が
したものです。
あの感覚がずっと記憶に残っていて、まさか音がするわけがないよな、とずっと自分の
感覚を常識で否定していたのですが、あれは気のせいではなく、私の蝸牛が震えていた
のかもしれません。やっと謎が解けた気分です。

「滝口さんらは準静電界を利用した通信や医療器具などの開発にも取り組んでいる。
“気配のモト”が、最先端の科学になる日もそう遠くはないのかもしれない」
とのことですが、まさにこれは、ヒーラーズラボの掲げる――、
「気も工業化の時代に入った」、さらには「開運も機械化の時代に入った」という
スローガンとピッタリではないか、と総毛立つ思いがしたものです。
気のせいでなければ――。

アカシャエネルギーは「気」の源

エドガー・ケイシーも利用していた

本ブログでは、アカシャ、アカシャと繰り返していますが、これについて
まだ詳細には語っていません。

たぶん、「アカシャ」という言葉より、「アカシックレコード」という言葉を
耳にした人のほうが多いと思います。
アカシックレコードというのは、なんだかレコード会社みたいですが、
宇宙のすべてが記録されている情報バンクだといわれているものです。
そんなものが本当にあるのかどうかはともかく、リーディングで有名な
エドガー・ケイシーがここにアプローチして情報を引き出していたというのは、
精神世界では有名です。
世界規模の予言から、個人の病気を治すための処方まで、アカシックレコード
にアクセスして情報を得ていたといいます。

世界の出来事ばかりか、個人の全記録も残らず網羅しているというので、
宇宙のエンサイクロペディアであり、閻魔帳みたいなものでしょうか。
よく死後に、現世でしてきたすべてを思い出させられるといいますが、
この宇宙のハードディスクにアクセスして丸裸にされるというわけです。
嫌ですねえ。
思い出したくない記憶は沢山ありますし、とても人様にいえない言動や行動
だって数知れず。

子供の頃、閻魔大王に丸裸にされて、悪いことをしていれば断罪されるという
のはすごい恐怖でしたが、もちろんそんなのは人に人倫を教えるための作り話
だと合理的に解釈しようとしても、過去の行いを全部洗いざらい思い出させられ
るというのは、それだけでも恐怖です。
いまや、大量記憶媒体もどんどん小型化されているので、生まれたと同時に、
頭のてっぺんにでも小型カメラを仕込んで、四六時中ビデオを撮って記録しても、
一生を記録する容量はさほど大きくならずに済むでしょう。だとしたら、少なくとも
宇宙のクラウドに人の一生の記録があっても不思議ではない気がしてきます。

宇宙に潜在しているエネルギー

そんな話はともかく、アカシャエネルギーの話です。
そのアカシックレコードのアカシックというのは、アカシャの英語的な変化形な
わけです。
アカシャというのは、サンスクリットで「虚空」「空間」「天空」を意味します。
すなわち、アカシャは宇宙にほかなりません。

「虚空蔵菩薩」というホトケ様がいます。
「虚空蔵」とは、サンスクリットの「アーカーシャ・ ガルバ」の漢訳で、
虚空の母胎という意味です。
虚空蔵菩薩とは、広大無辺の宇宙と同じく、無限の智恵と慈悲を持った菩薩、
という意味になります。

真言宗では十三仏の、最後の一仏としてお馴染みです。しかし、一般的には、
観音菩薩、弥勒菩薩、不動明王などという仏菩薩は誰でも知っていても、
虚空蔵菩薩というのは、初めて耳にするという人が多いでしょう。
もし初めて聞くというなら、いま虚空蔵菩薩と縁ができたということで、
それだけでも幸いなのです。
もう知らないとはいえません。活かすも殺すもあなたしだい(笑)

虚空蔵菩薩の真言(マントラ)は、「オン バザラ アラタンノウ オンタラク ソワカ」
この虚空蔵菩薩を本尊にして、記憶力増強の求聞持聡明法を修するとき、
マントラはこう唱えます。

「ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オン・アリ・キャマリ・ボリ・ソワカ」

このマントラを耳にする人は幸いです。

簡単にいえば、宇宙エネルギーや気と同じ

アカシャエネルギーというのは、私たちの造語です。
「虚空エネルギー」とでもいいましょうか。
すなわち、宇宙エネルギーです。

ビッグバンで一瞬にして宇宙は出現し、猛烈な勢いで拡大しながらも、そのエネル
ギー密度は変わりません。
すなわち、外から空気を注入していないまま風船がふくらんで、なおかつ風船内の
エネルギーは希薄化されないのです。それが宇宙の不思議です。
そういう意味での宇宙物理学的な、宇宙に宿るエネルギーはたしかにあります。

しかし、宇宙エネルギーというと、宇宙物理学以外でも用いられる曖昧な言葉でも
あります。宇宙に偏在するエネルギーとしては同じでも、ダークマターのような
宇宙物理学で計算の対象になるものではなく、精神世界系やフリーエネルギー界
でも用いられる漠然とした概念でもあります。

精神世界系では、古代インドでいうプラーナと同様の、生命活性のエネルギー源
として用いられる言葉であり、フリーエネルギー界では、空間から無尽蔵に流入
して発電されるエネルギー源として使われる言葉です。

アカシャエネルギーは、それらを総括して名づけた造語です。
ということで、宇宙エネルギー、プラーナ、気、オルゴンエネルギーなどと
同類だと思ってください。さらには、ダークマターにもつながるエネルギーだと
考えています。

ただし、同じ石油製品でも、原油もあればナフタや軽油、ガソリンもあるように、
微妙な違いはあります。気が、どちらかというとガソリンに近いとするなら、
アカシャ・エネルギーはより根源的な原油だというのが私たちの考えです。

「ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オン・アリ・キャマリ・ボリ・ソワカ」

よきかな、よきかな。このマントラを唱え、その波動に浴するものは幸いである。
奇跡の波動を自分はいま発振している――。
そういう思いで唱えると、波動効果はまた格別です。
なかなか遭遇しがたい、虚空蔵菩薩を味方につける奇跡のマントラである、
というふうに思えば自己催眠効果も働きます。

アカシャエネルギーは純粋なエネルギーではありますが、虚空蔵菩薩と菩薩の
名がつくことで、人の情に感応するパワーとなるのです。
意気に感じ、事情も汲んで、その琴線に触れれば、スーパーマンのように、
応援しようとたちまちやって来る。
そのエネルギーを操れば、世界は自分の思いのままに変化する。
その意味で、虚空蔵菩薩の名を知ることは、得難い幸いなのです。

アカシャエネルギーによって空海はホトケに化身した

この虚空蔵菩薩については、空海を抜きには語れません。
「虚空蔵菩薩求聞持法」を成就した空海は、脳を改造して天才に磨きをかけます。
そればかりか、衆人の前で即身成仏をしてみせたのです。
即身成仏? 空海がミイラに!?
そうではありません。即身成仏というのは、ブッダ釈尊のように、現世の生身で
ブッダになることをいいます。それが本義です。お釈迦様が存命中は、その直接
の教えによって何百人もの修行者がブッダになったと伝えられています。
仏教は、現世の生身でブッダになるのを目的とする宗教です。

弘仁4年(813)正月、嵯峨天皇直々に、空海をはじめ、当時の宗派の高僧7人の
合計8人を宮中に招いて、宗教論を聴聞する機会が設けられました。
他宗はみな、成仏なんて何度も生まれ変わっての、長い修行のすえにやっとできる
ものだと説きます。これを未来成仏といいます。
これに対し、一人空海だけが、空海の本髄である即身成仏を悠然と説きます。
高僧らが寄ってたかって空海をあざ笑うなか、空海はその場でおもむろに大日如来
の智賢印を結び、マントラ(真言)を唱えてすっと定に入るや、
(すなわち、身口意の三密です)
大日如来に化身して、全身から黄金の光を、眉間から白光を放ったというのです。
大パフォーマンスですね。

さて、これがブッダの即身成仏かどうかはわかりません。
こんな3Dの仏像のように変身してみせたというのは、周囲に幻術をかけたのかも
しれませんし、いわゆるクンダリニーエネルギーとチャクラの活性によって、オーラを
激しく発光させた現象なのかもしれません。
しかし、いずれにしろ常人技ではない。アカシャ・エネルギーの取り込みがなけ
ればなしえない現象です。

ホントに空間からエネルギーを汲み出せるのか?

空間からエネルギーがホントに汲めるのか?
何か象徴的に語っているだけなのか?
そんな疑問は捨てきれないでしょう。

飲料や食物のように、私たちはエネルギーを外から補給するのを見慣れているので、
内部へモノを運んでやらなければ、何も取り込むことなんてできないという先入観を
持ちがちです。それは当然です。
が、どうしても周囲の空間から何らかのエネルギーが入ってきていると仮定しなければ
説明できないのが「フリーエネルギー」現象です。
たとえば特殊な発電装置で、投入したエネルギーより、出てくるエネルギーのほうが
大きくなるケースがあります。そのとき、周囲の空間からか流入してくると仮定する未知
のエネルギーをフリーエネルギーと呼んでいます。

そのフリーエネルギーこそ宇宙エネルギーだというわけです。
これについては、また次回でお話しすることにします。

山の成功波動

我が世たれぞ常ならむ

編集者の友人から、友人と二人で山へ行くとのメールが入りました。
以前から私も山登りを誘われているのですが、体力に自信がないのでずっと
断りっぱなしです。
その友人は、最近父親を亡くして、しばらくかなり落ち込んでいました。
メールには、一緒に山登りに行く相棒も6月にお母さんを亡くしたばかりなんだと
書かれていました。
私はとっくに両親を亡くしていますが、ずっと離れていて10年以上も顔を会わす
こともなかったという親不孝だったにもかかわらず、いざ他界されるとその喪失感
は実にきついものでした。

『国家の品格』で著名な藤原正彦も、父親の新田次郎を亡くしたときは、丸2年間
何も手につかず、父親が旅行して回った海外の国々を、そのままなぞって回る追想
の旅をしていたといいます。私もその気持がよくわかりました。
私も父親に逝かれて数年間はダメージを抱えていましたが、母親のときはそれ以上
でした。親不孝者でしたので、なおさらだったのかもしれませんが。

親の死、特に母親の死に、みなこんな喪失感を味わい、乗り越えているのかと思っ
たものですが、別の友人は、同居していた奥さんとのソリが悪く、その間に入って
実に辛かったので、母親に逝かれたときは、正直安堵のほうが大きかったと漏らし
て、ああ、そういうケースもあるのか…、人それぞれなんだなあ、と感慨深かった
ものです。

前回のブログで話したように、この世は無常です。
愛するものと死別すること。生老病死。生々流転。
この世は、無常以外の何ものでもありません。

山は何がゆえに貴いのか?

友人への返信メールはこんな返信をしました。
まあ、いつもふざけたメールを送り合う仲の、これも一種の言葉遊びなので、
ここは軽く読み流してください。
まずは、この間ここで話題にした本の話から入りました。

『人は死なない――ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索』
という、東大附属病院救急医学の教授(矢作直樹)が書いた本が数年前から
話題になっていますが、学生時代、単独で雪山によく登っていたそうで、
雪崩とともに滑落し、九死に一生を得た経験が2度もあるそうです。
2度目の滑落で助かったとき、「もう来るな!」という声が頭に響いたそうです。
それから、山へは二度と足を踏み入れていないんだとか。

「山高きがゆえに貴からず」なんていう言葉がありますが、
では、何がゆえに貴いのか?
ヒマラヤはいうまでもないですが、高くて空気の薄いところには、
仙境をはじめ、異界に通じるトワイライトゾーンがあるような気がします。

そういえば、岳父とはいいますが岳母とはいいませんね、と書こうとしたら、
岳母もあったんですね。
でも、どちらかというと、母は海。
漢字の海の中には母がありますが、フランス語の母の中には海がある、というのは
聞いたことがあるでしょう? 三好達治の『郷愁』ですね。

――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。

母(mère)の中に海(mer)が含まれているという話です。

ちなみに、ヤマの反対はマヤで、摩耶(マヤ)夫人はお釈迦さんの生母ですね。
で、また、「マーヤー」は幻覚を意味します。
矢作直樹の天の声は、ひょっとして、ヤマを真っ逆さまに滑落したときの、
まやかしのマーヤーだったかもしれません。

山を愛し自然と同化する日本人

さて、「山は何がゆえに貴いのか?」という疑問は置いといて――。

一神教は砂漠でできた、といわれます。ユダヤ教をはじめ、キリスト教やイスラム教
はたしかにそうです。
それに対する多神教の日本には、アジアモンスーン地帯の、広葉樹林の豊かな自然
があります。自然の何ものにも、イノチの輝きを見出すアニミズムです。
草木悉皆成仏ですね。寒い冬もありますし、一年中裸で過ごせて、取り尽くせない
果物がなっている熱帯のパラダイスではありませんが、砂と岩だらけの荒野から比べ
たら、緑豊かな日本などパラダイスでしょう。

日本人ですから、日本賛美をしたくなるのは当然ですが、古代からの日本人が
掛け値なしに偉いなあ…と思うのは、里山を愛し、明治以来工業国として大発展
したのにもかかわらず、いまでも森林面積が70%もあり、清流がふんだんに流れ
ていることです。山への畏敬、自然へ同化する縄文の心がベースにあるからです。

大森林だった西欧の地は、伐採され尽くしました。牧畜狩猟民は、自然を略奪する
文化です。それも、自然はすべておまえたち人間が利用してよい、という旧約聖書
の神の言葉が背景にあります。自然を利用する対象として、人間を君臨させ、
傲慢にさせてしまいました。

中国もそうです。森林は伐採され、あちこちで赤茶けた山肌が無残に露出して
います。
あの国の、人権抑圧や全体主義体制は、内政問題ということでスルーしたとしても、
環境破壊は、地球全体に悪影響を及ぼすので、我が事として黙ってはいられません。
重金属にまみれた土地の汚れは川の汚れとなり、海の汚れとなり、砂漠のチリや
大気の汚れは、PM2.5 となって日本に飛来します。
南シナ海や尖閣防衛の前に、地球規模となりかねない環境破壊への防御が緊急の
課題です。日本人は、砂漠化防止のために無償で効率的な植林をしたり、水質浄化
のボランティアをしたりしていますが、政府が巨費を投じて動かなければ焼け石に
水です。

山の音(波動)

聖書が生まれたのは砂漠の荒野でしたから、あえて理想の天上世界(天国)の
プロパガンダをする必要があったのです。
一方、日本においては、その豊かな自然から、信仰を強要する物語の創作など
必要なく、ごく自然に、周囲の山々(自然)を畏敬し、そこに超自然の息吹さえ
見る感覚が本能的に備わっています。その超自然の息吹が、日本人にとっての
カミなのです。カミとはいえ、創作された一神教の神(GOD)ではありません。

青年期を山岳で修行した弘法大師空海は、こういっています。
「森の世界はこの人の世はもちろん、天上の世界にもない」
つまり、森は人間が考えだしたパラダイスより、はるかに美しいというのです。
現世肯定の空海だからというより、空海は現実の山林に荘厳さを覚え、多大な
リアリティを感知していたのでしょう。
一神教が掲げるパラダイスなど、豊かな日本の山を前にしたら、プラスチックの
箱庭に過ぎないというようなものでしょうか。

宇宙と一体、なんていう観念的なことをいう前に、日本人は、庭先の虫の音にも
共鳴し、自然と一体となる皮膚感覚をもっていたのです。
移ろいゆく自然の、もののあわれ。
「情景」という言葉があるように、自然の景色に情をナチュラルに重ねるのが日本
のこころです。俳句などはまさにその表現です。

古池や蛙飛び込む水の音

自然を眺め、自然と一体となるこころを五七五の短句にまとめて楽しむという
のは、日本人だけの感性です。しかも、知的階層だけではなく庶民までがそれを
たしなむなんて。
日本人は特殊で、虫の声を外国人が雑音として右脳でしか聴かないのに、日本人は
左脳で言語として聞くということですが、それは自然と共鳴する特殊な能(脳)力に
依るのかもしれません。

山に満ちる波動

『一神教の闇』(安田喜憲)という本にこんなことが書かれていました。

人間にとってもっとも好ましい音環境とは熱帯雨林であるという。
熱帯雨林は、人間が聴覚ではとらえきれない20キロヘルツ以上で130キロヘルツ
にも達する癒しの音、憩いの音に満ちあふれている。その中で人間が暮らすと、
その音環境が脳幹を刺激し、ストレスの解消や免疫率の向上など、さまざまな
効果が現れることが実験的に確かめられた。
それに対して、砂漠は静寂である。その静寂の砂漠の音環境は20キロヘルツ
以下の音に限られる。これに近いのは、私たちが日常的に暮らしている都市の
音環境である。都市砂漠とは、その本質をついた表現だった。その砂漠や都市
の音環境は、人間にストレスを加え病気を引き起こす原因ともなっている。

さらに昆虫バイオセラピーなるものがあって、PTSDの患者に鈴虫の鳴き声を聞か
せると、頭頂部でのアルファ波の発生が増加し、ストレスの減少効果が2倍になる
ことが確かめられているという話もありました。
葉擦れの音、川のせせらぎ、鳥や虫の鳴き声など、山の懐に分け入ると、都会の
緊張が緩んでいく情感を覚えるのは事実です。それらの癒しの空間に身をゆだねて、
山でリフレッシュされるというのは大いにわかります。自然と切り離されるのは、
それだけでストレスなんですね。

では、ゴツゴツの岩山をトレッキングすることでも癒やされるといいますが、
森林限界を超えた高地には何があるんでしょう? それはそれなりに、目には
見えない波動があるのだと思います。13万ヘルツよりも高周波かもしれませんし、
匂いや磁場なのかもしれません。あるいはテラヘルツのような、生理活性を呼ぶ
特殊な波動域があるのかもしれませんし、岩石から放たれる微妙な電磁波なの
かもしれません。また、その大気に秘密があるのかもしれません。

虚空蔵パワー

空海は私も畏敬する大天才です。
宇宙が波動であることを知悉し、空間から無尽のエネルギーを汲み出した人物です。
空海と波動については、今後のテーマにさせてもらうつもりです。空海さんには、
これからもちょくちょく登場してもらいましょう。
なんといっても、アカシャエネルギーの体現者なのですから。
一人洞窟にこもり、虚空蔵菩薩のマントラ――

「ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オン・アリ・キャマリ・ボリ・ソワカ」

これを百万遍唱え、アカシャエネルギーを身に取り入れ、潜在意識を活性化し、
求聞持聡明法という奇跡の法を成就した超人なのです。
このマントラのアキャシャはアカシャと同じで、虚空の意味です。
求聞持聡明法というのは、人の記憶力をコンピュータ並に増大させる法です。
空海は、これによって生まれながらの明晰な頭脳をさらに飛躍させたのです。
虚空蔵菩薩というのは、アカシャエネルギーを菩薩として擬人化したものです。
菩薩を擬人化というのも変ですが。

開運もアカシャエネルギーと同調させる波動装置で

結局、この世は波動なんです。
物質は、波動という目に見えない極細の網の中の、糸が密集した網目です。
現実を自分の思惑で作り変えたり引き寄せたりというのは、まさにその網を操る
ことです。それを行うのが潜在意識の縫い針なのです。

TVやラジオがどうして聞こえるのかというと、放送局から発信されている電波と
同じ周波数を発振することで共振し、その電波を取り込んでいるからです。
電磁波による放送や通信の受信はみな同じ。

アカシャエネルギーも同じです。アカシャエネルギーには、生命活性を促し、
さらには人の運勢まで活性化させるある特定の波動が含まれています。
その波動と同調する波動をこちらから発振してやれば、自動的にエネルギーが
流入します。
それが、ヒーラーズラボが開発する波動装置の仕組みであり、
「開運も機械化の時代に入った」という意味なのです。

お墓と成功法(2)

それでは、前回で紹介するつもりだった原稿(以前、ある雑誌のコラムに書いたもの)を紹介させて
いただきます。

お墓の好きな日本人

 あなたは霊魂を信じますか?

近頃、死んだ人間がこの世に舞い戻るという物語をよく見かける。ちょっと思い出してみても、
『鉄道員(ぽっぽや)』『秘密』『四日間の奇蹟』『いま、会いにゆきます』『黄泉がえり』など。
これらはみな小説であり、映画化もされている。一昔前には、『居酒屋ゆうれい』や『異人たちとの夏』
なんていう作品や、洋画では『ゴースト』や『シックスセンス』があった。
「魂や死後の世界を信じる」人の割合は、いまどのくらいだろう。心霊番組もよくあるので、
けっこうな割合になるのではないか。それでもまだ、死んだらそれまで、という現実派も半分はいる
だろう。大雑把だが。
死後の世界を信じていなくても、人は死んだらお墓に入って供養され、身近な者に死なれれば、
私たちは墓前で手を合わせる。年に一度は、先祖の墓参りもするだろう。
それにしても、「あの世」を信じていない者が葬儀や墓前で手を合わせるときには、一体何に何を
祈っているのか? 「冥福を祈る」というなら、冥界とはまさにあの世のことではないか。しかしまあ、
世間のしきたりで、祈るふりでもしておかなければ角もたつ。とかくにこの世は住みづらい。

 墓を作ったときサルはヒトとなった

「人間とは何か?」という定義が、昔からあれこれ試みられてきた。直立二足歩行をする、コトバ持つ、
道具を使う、火を使う、などなど。
そのなかに「墓を作る」という定義がある。人類が人類となったのは、まさに墓を作り出したときからだと
いうのである。たしかに、前足を合わせて合掌するイヌやネコはいても、墓を作る動物など人間以外に
心当たりはない。
チンパンジーは、死んだ乳飲み子に執着する話は知られている。死んだからといって、すぐに捨てる
べきモノになってしまうのではなく、干からびてミイラになっても手放さず、乳をやる仕草も止めない例が
観察されている。それでも一定の時が経てば、やがてモノとなって遺棄される。そんなに執着していても、
その遺体を土に埋めることは決してない。

 最初に墓を作ったのはネアンデルタール人

たんに穴を掘って埋めるというだけでは墓とは呼べない。イヌやネコだって、糞をすれば土をかける。
遺体を放置すれば嫌な腐臭が漂うし、動物に荒らされるので、たんに死体というモノとして処理して
いるだけかもしれないのだ。近くに川や洞窟がないから、仕方なく埋めるというわけ。
しかし、ネアンデルタール人が発見されたイラクのシャニダール洞窟では、遺体と一緒に花が埋め
られていたのだ。その献花が死者への供物であり、墓であることの証明になったのである。
ネアンデルタール人と共存していた現生人類のホモ・サピエンスも、同じく墓を作る種族だった。
時が経つにつれて、献花は、やがて死者がふだん使っていた道具や宝飾品などの副葬品となって
いった。
副葬品というのは、死んでからも、あの世で不自由なく暮らしてほしいという願いがこめられている。
死んだらそれで終わりになるのではなく、来世の「あの世」が待っている。つまり、肉体が滅んでも、
なくならない「霊魂」という存在が想定されているのだ。
科学から見たら、脳死で人格はすべて消滅する。あの世など迷信にすぎない。しかし、仮に迷信だと
しても、それは相当高度な精神がなければなるまい。イモを洗って食べるサルはいても、縁起(迷信)
をかつぐサルはいないだろう。
まさに霊長類。霊に長けた種が人類というわけだ。ということで、霊魂を意識するホモ・サピエンスと
ネアンデルタール人だけが人類の名に値する。墓を作らなければ、霊長類に分類される他のサル
たちは、本来、霊長類には値しないのだ(まあ、これは冗談で、霊長類の霊はたんに「優れた」という
意味。霊魂とは無関係)。

 墓を作らない民族(宗教)もある

同じ人類でも、墓を作らない民族もある。といっても、霊魂を信じていないわけではない。
例えば、輪廻転生の本家本元であるヒンドゥー教徒は、火葬にして灰を川に流したり地に撒いたり
する。
チベットには鳥葬があり、ニューギニアでは遺体を樹上に据え置く部族もある。棺にも入れないで、
そのまま遺体を地上に放置する風葬は世界各地にある。一見、あの世の観念のない死体遺棄の
ようにも思えるが、皆それぞれに来世の幸福を祈られて葬送されている。昔は日本にも風葬はけっこう
あった。
墓を作るにしても、死者への供養の仕方は様々である。アジアやアフリカの伝統的宗教では大体
墓参りが好きで、供物も捧げる。日本人も、なかなか熱心な墓参り信者だ。
ドラマを見ても、墓参りはよくあるシーンで、墓石に向かって語ったり、またそこで偶然関係者
同士が出食わしたりする(!)のが定番になっている。
家族が他界して間もなければよく足を運ぶだろうし、先祖の「供養」のために、彼岸や盆の墓参りは
欠かさない。日本人は無宗教といわれながら、「あの世」の熱心な信者である。
これに対して、クリスチャンは淡白だ。まず墓は礼拝の対象にはならない。捧げるのはせいぜい花
ぐらいで、供物は供えない。あの世のことはみな、神が仕切るという発想だろうか。イスラム教徒も同じ。
ただ聖者は、現世利益を与えてくれるということで、その霊廟は礼拝の対象となっている。

 死者への供養と死霊への恐れ

墓は、冥福の供養のためにあるだけではなかった。古代の、石を抱えて埋葬された屈葬を見ても
わかるように、死霊がさまよい出ないための仕掛けもある。日本では、死後間もない霊は不浄であり、
時間が経つにつれて浄化され、やがて子孫を守る祖霊となるという考えがある。死後しばらくは、遺体と
共にじっとしていろ、というわけだ。菅原道真や将門のように、祟りを怖れられる存在ともなれば、霊の
封印ではなく、丁重に祀ることで祟りの回避がはかられたのである。

 いずれ墓は冷凍カプセルに?

日本の墓といえば、まず頭の平らな方柱状石塔が思い浮かぶ。ところが、あれはけっして伝統的な
様式でもなく、江戸時代後期から出てきた流行(はや)りのようだ。墓も時代によって流行がある。墓は
どんなスタイルでもいいのであり、墓石もピラミッド型にしたって悪くはない。どうせ霊魂は墓に眠って
なんかいなくて、「千の風になって」いるのだろうから。
となると、こんな疑問がわいてくる。発達した未来の医療技術によって蘇生してもらおうということで、
遺体を冷凍保存するサービスが米国にはある。これも一種の墓なのかもしれない。しかし、一体この
遺体の霊魂はどうなるのだろう? 遺体と一緒に冷凍保存されるのだろうか。
まさに霊凍保存。
それともいったん風になって、蘇生したときにまた戻ってくるのか。
あるいはちゃっかり転生して、その未来の頭脳で蘇生術を完成し、冷凍保存の前世の自分を蘇生
させるというような、アンビリーバボーな展開もあるかもしれない。もっともそうなったときには、老いた
元の体になんか戻りたくはない気もするが。

シャカは肉体こそ墓だと思っていた?

自分で書いておきながら、冷凍カプセルに、なんていう話はすっかり忘れていました。
なるほど、霊凍保存か。
それにしても、魂が転生している未来で、かつての肉体が蘇生したとき、自分は同時に2つの体で共存
できるのでしょうか?
現代の自分が、過去や未来の自分へ会いに行ったらどうなるのか、といったタイムパラドックスに似た
難問です。

問題は、このとき魂はどうなるのかということです。アメリカの冷凍保存サービスは、全身まるごとだと
思いがちですが、なかには脳、あるいは頭部だけ切り離して保存するという方法もあります。そんな状態で、
魂以前に意識がよみがえりでもしたら、はたして精神は正気でいられるのでしょうか? 閉所恐怖症の
私としては、究極の閉所なので、考えるだけで発狂しそうです。

キリスト教では埋葬された死者はいずれみな復活する

冷凍カプセルでいずれよみがえるというのは、必ずしもSF的な発想ではありません。
そもそもキリスト教では、お墓に入っている死者は、復活の日にやがてみな肉体的によみがえるという
考えをもっています。
朽ちた遺体がそのまま、きれいな体になってよみがえるというのはメルヘンですが、その遺伝子を
培養して作りなおすというなら科学です。

日本人が遺骨に執着するのと同じく、アメリカ人は外地での戦死者を、どんなに傷ついた遺体でも、
できるだけの努力をして母国に持ち帰ります。遺族のためではあるでしょうが、それも、復活を見据えた
信仰に由来していのかもしれません。
それからすると、肉体をただの魂の入れ物の物体として、なんらの執着もしないシャカの宇宙観のほうが
私にはしっくりきます。とにかく、シャカは、死後、肉体から抜け出した魂がまたこの世の肉体に宿るという
輪廻転生からの解脱を説いていたのですから。
現世否定の、いわば究極のマイナス思考ですが、そっちのほうが粋だと思います。
シャカにとって、この肉体こそ自由な魂が埋もれてしまっている墓だと思っていたのかもしれません。

供養式成功法

この世は「顛倒(てんどう)夢想」のスクリーンである――。
そんなふうにして、この世も自分自身も、客観的に眺めるこころの姿勢が、潜在意識に潜り込んで
この世のビジョンを都合よく変える、意識の力となります。
愛するものの死に、人は世の無常を知って嘆きます。
せめてその形骸だけは永く遺してやろうという無常への抵抗で、人はミイラを作ったり、墓を建てたり
するのかもしれません。
が、その無常観こそ、裏を返せば成功法の極意に通じるのです。

現実は、けっしてシナリオがかっちりと固定され、ハードディスクに焼き付けられた3Dビジョンでは
ありません。空間だけではなく時間もそう。過去から未来へ流れるだけではなく、現代が未来を追い
越してしまうタイムパラドックスだってありえます。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし」

無常を説く方丈記の有名な出だしです。淀みに浮かぶ泡は、一方では消え、一方では生まれ、
一瞬も留まっていない幻です。とはいえ、水の流れは現実であって、船を浮かべて楽しむことさえ
できるのです。みな流れていて、確固としたものは何もないのですが、固い氷でないぶん形も自由に
操れます。

どうせ墓参りに行くなら、成功法の極意がそこにあると意識して向かいましょう。
家では、もし信仰があるなら、その神仏をイメージして意識を集中させます。
それが供養式成功法です。
どうしてもそれができなければ、あるいはもっと簡単に精神を集中させてアカシャエネルギーと共振
させたいのなら、ヒーラーズラボには、それを補助する物理的な装置が用意されています。
ぜひ活用してください。

お墓と成功法(1)

墓は作るなとシャカはいった

前回は『先祖供養の効能はホントにあるのか?』という話でした。
そういえば以前、ある雑誌の連載コラムに「お墓」を話題にしたことがあるのですが、
それをそっくりここで紹介させてもらうことにします。
自分で書いておきながら、すっかり忘れていました。

そこには――、世界には墓をつくらない民族もあるが、日本人は墓参りが好きな民族
だということ、墓石のデザインにも流行があり、いまの「方柱状石塔」は、江戸時代後半
に始まったものだ――などという雑学が披露されています。

お墓というと仏教だとすぐに連想するでしょうが、お釈迦さん自身は、とにかく修行して、
自分自身がブッダになれということを、口を酸っぱくして説いていた人なので、墓なんて
まったく意に介していないです。
お釈迦さんは、本当に、人間の肉体はただの魂の入れ物だという考えだったんですね。
遺体や遺骨が墓に埋葬されようがされまいが、魂の行く末は肉体を持っていたときの
生前の修行によるものだという考えでした。

ところが、自分が死んでも墓なんて作らなくていいというのに、遺骨が仏塔(ストゥーパ)に
祀(まつ)られて、仏舎利として信仰の対象となり、その仏塔は日本にまで建立されるように
なってしまいます。

宇宙に撒かれ地球に落ちる流れ星になりたい

私も散骨で十分だと思っています。できればロケットで重力圏外に飛ばされて、
一周忌ごろ地球に落下すればいいと考えます。
で、流れ星となって長い光跡を引くわけです。
その夜空の光芒が、病床の少女の目にとまるんですね。
「ああ、お星さま、こんどのクリスマスは元気で迎えられますように」
と、そんな祈りを叶える星になると。
なんていうなら理想中の理想です。
なんだか、オー・ヘンリーの小説にでもありそうな話ですが。
まあ、いうだけただですね。

墓の功徳

ただ、お墓や墓苑というのは、僧侶の供養とセットになって既得権益になっているので、
墓を建てることの功徳の宣伝は廃れないでしょう。

いや、功徳にはなると思います。
しかし、それは建立自体にあるのではなく、あくまで冥福を祈る人の「集中された祈念」
にあるのだということです。
功徳があるとするなら、死者の魂の冥福を祈るその「こころ」にあるわけですね。

ああ、カネがかかるなあ、こんなモノ建てることに何の意味があるのか、なんていう否定的な
思いで建てるなら、功徳、すなわち見返りも少ないでしょう。
もし墓参りで、祖先のおみたまにお願いごとをして、それが叶えられたとしたら、
それは霊界からの他力(助力)というよりは、自分の自力の思念が引き寄せたのだと
いうことです。

かりにもし、先祖が常日頃下界の祖先を守っていてくれているというなら、いままで
ご先祖さんは、どうして助けてくれなかったのか?
不慮の事故で亡くなる人もいれば、悪人にだまされて借金地獄に陥っている人もいます。
難病の子供もいます。善良な人間なのに、世の中には不運続きな人がたくさんいます。
先祖のいない子供は誰もいません。もし霊界から先祖が必ず子孫を守ってくれている
のだとしたら、この世に悲惨な出来事など起こらないはずです。

それなのに、この世は不幸が量産されています。
やはり、助けてください! という声の大きさ、潜在意識まで動員した思念の強さが、この世の
背後にある霊界の扉をノックしたのだと考えざるをえないのです。
「叩けよ、さらば開かれん」ですね。

成功を呼ぶお墓のカタチ

とはいえ、お墓がもし大きなピラミッドだったら、その前で祈る人の思念が増幅されて、
霊界へ届く祈りの力が大きくなるのかもしれません。

ピラミッドパワーというのは、たしかにあります。
ピラミッドパワーは、カタチが生み出すパワーの好例です。
あの正四角錐が、アカシャエネルギーとよく共振して、空間からエネルギーを汲み出すのです。
あのギザの、本家本元の巨大ピラミッドは、王の魂が冥界で豊かに暮らせるための、
魂強化の装置だということですが、何か別の効果や思惑があったのかもしれません。

日本の五輪塔は、そういうカタチのパワーを念頭においた墓の形状の1つです。
信長や信玄など、名だたる戦国大名の多くが、この五輪塔の墓石に祀られています。

成功を呼ぶ祈りの装置――「祈りの塔」を開発した

もし、墓の形状が、そのカタチによってパワーを発揮するのだとしたら、アカシャエネルギーと
よく共振する装置を作ればいいのではないか?
という発想は当然出てくるでしょう。
だとしたら、先祖の冥福を祈る装置として、すなわち自身の祈りの拡大装置として、
それは墓ではなく自宅に設置してもいいはずです。

先祖を祀る装置としては、墓のほかに戒名を祀る仏壇があります。
本来仏壇とは、本尊を祀ったもので、在家宅に設置された仏教の礼拝施設ですが、
一般家庭では先祖や家族の位牌を安置する設備(小祠)となっています。
信心深い日本人は、日々仏壇に供物を捧げ、その前で手を合わせます。
読経する人もいるでしょう。

仏壇はそもそも礼拝施設なんですね。
礼拝は、神仏などの霊的存在に対して、伏し拝むことをいいます。
それ(礼拝)は、へりくだったそのポーズをすることで、神仏への帰依を訴え、加護をいただこう
というものではありません。
あくまで、貴い存在を思い描くことで、思念を集中させて、祈念の現実化力を高めるための
瞑想導入の、身口意のポージングなのです。
その意味で、礼拝は精神集中をするためのものであり、仏壇は精神集中装置だとみなすのが
妥当です。

だとするなら、仏壇のかわりに、礼拝や祈念、瞑想をするときの思念増幅のための物理的装置
があってもいいだろうというのは、ごく自然な発想です。
わかりやすくいえば、脳波誘導のヘッドギヤみたいなものです。
じつをいうと、ヒーラーズラボはそういう装置をすでに作っているのです。
とはいえ、さすがにそれはヘッドギヤではありません。
信心はあっても、都会では仏壇がない家庭もあります。
そういう人たちのための祈りの増幅装置――「祈りの塔」です。

さて、コラムを紹介するつもりだったのですが、前置きが長くなってしまったので、
それは回を改めて掲載することにします。

先祖供養の効能はホントにあるのか?

供養は成功法である

世の成功者に、一番手っ取り早い成功法は何か? と尋ねて、多く返ってくる
答えに先祖供養があります。
先祖供養?
成功法に関心のある人でも、霊的存在を否定している人はまず拒絶反応を起こす
でしょう。

それはわかります。とはいえ、成功者や大手企業のトップが成功の秘訣は何かと
尋ねられると、ほとんどの人が自分は運がよかったと答え、またそのなかの多く
が先祖供養を欠かさないと語ります。
たしかに、たとえば代々続いている老舗などでは、まず先祖供養は、伝統の祭り
のように、どこでもごく当然のごとく継承されていることでしょう。
また、強運のたまもののような芸能人なども伝統的に神仏を畏敬し、験(げん)を
担いだりする体質ですから、目に見えない先祖のお御霊(みたま)に感謝し、供養を
心がけているという人の割合は多いでしょう。

ただし、これだけでは、成功と先祖供養の因果関係が明らかになったわけでは
ありません。先祖供養をやっていなくても、成功している人はたくさんいますから。
つまり、先祖供養が成功を生んでいるというよりは、成功している人は、もともと
先祖供養を重んじる背景を持つ確率が高いということになります。
逆に、貧困層は、先祖供養などやっている余裕がないという確率が高いはず。
東大生は、親が高収入の確率が高いというのは統計的な事実ですが、
かといって、けっして貧困家庭から東大生が出ないわけではありません。
統計の取り方をきちんとしないと、科学的なグラフは描けませんね。

供養効果の事実はある

しかしながら、何事もうまくゆかず、八方塞がりなときに、墓参りをしてから
急に風向きが変わって、窮地が救われたという話がけっこうあるのです。
これはすべて偶然なのでしょうか。

先祖供養をすることで救われる、なんらかの見返りがある、という考えは、
一般的にご先祖様へ祈念することで、その方々からサポートをしてもらえる
という考えです。
この世の図式でいえば、政治家に陳情するというようなものでしょうか。
あの世の霊的ネットワークに働きかけて、この世に介入してもらうというわけです。

無縁仏を供養して大成功した

実をいうと、見返りのある供養というのは、あの世の先祖(血筋)や縁者だけが
対象になるのではありません。霊的存在なら何でもいいのです。

私の友人に、ある食品業界の三代目で、難しい開発を成功させた男がいます。
その業界で初めて、まず無理だといわれていた製法を独自に開発し、一般消費者
にまで大きなブームを引き起こしたのです。
日経の一面を飾り、TVだけで30回は出たそうです。私も朝の経済ニュースを
眺めていて、突然彼が出てきて、飲んでいたコーヒーを噴いたことがあります。
彼がその開発に難儀していた頃、たまたまある霊能者と縁があって、工場の敷地の
外れに無縁仏の遺骨が沢山埋まっているから、それを供養してあげてください、
そうすれば大きな功徳になりますよ、といわれ、その言葉どおり実行したら、
その後まもなく開発が成功し、大成果を収めたというのです。

開発の機が熟していた時期と、たまたま重なっただけなのかもしれませんが、
彼自身霊感のある人間なので、あの開発が成功して製品が売れまくったのも
そのおかげ、すなわち霊的功徳によるものだといまだに信じています。
「情けは人のためならず」をもじれば――、
「供養は霊のためならず、おのれの福運のためにあり」ということになりますね。

目に見えないものへの供養こそ見返りは大きい

供養というのは、死者の冥福を祈って法会を営むことをいいます。
ふつう、死者が対象です(追善供養)。
この世界の生きている人、とくに有力者に貢物をすれば、何かと利便をはかって
もらえる機会は増えるでしょう。現実世界での供物(貢物)は、賄賂が端的な例で
あるように、現実的な効果があります。

それでは、死者を供養して、この現実世界の自分にどうしてよい影響を生む
ことになるのか? です。
まあ、霊的世界を迷信だという人には、とても理解できない話でしょうが。

命(イノチ)は、目に見える存在だけではないんですね。
どんな形態でも、他のイノチを利すれば、自分の利となって返ってくるという
のが、この世とあの世の宇宙の法則なんです。「情けは人のためならず、回り
まわって自分の徳(得)となる」です。
それにまた、その対象が小さく貧しいものほど、陰徳であればあるほど、逆に
見返りは大きいのです。貧しいものにこそ神は宿る、と思って損はありません。

もし無縁仏を供養して、そのおみたまが救われたとするなら、その恩に報いる
ために応援してくれるということもあるでしょうし、そんなふうに救われた霊からの
直接の応援が得られないとしても、「情けは人のためならず」の法則どおり、
福徳を得られるからです。もちろん、福徳は福運になります。
先祖には、浮かばれないおみたま(イノチ)がたくさんいます。
この世で捧げる灯明は、あの世の道を照らす光にもなるのです。
利己の近道は利他なんです。
利己と利他は、メビウスの輪のようにつながっています。

霊的加護を抜きにして供養の効能を考える

いや、そんな話は信じられないというなら、霊的な存在を抜きにして考えてみます。
つまり、もし供養する霊的対象からの見返りも、他人(霊的存在を含めて)を救えば、
自分が救われるという宇宙の法則もないのだとしたら、それどころか霊すらないのだ
というなら、ほかに何がどう作用しているのか? ということを考えます。
たとえば墓参りには、霊的な話を抜きにして、それが幸運をもたらすどんな働きが
あるのか、です。

精神集中は実に難しい

前に、成功法の極意は祈りだ、という話をしました。
レンズが太陽光を集めて紙を燃やすように、意識を集中し、祈りの念が極度に
収斂されたとき、その祈りは実現化されるというのが成功法の極意です。
――と簡単にいっても、その精神集中が難しかったのでした。

だいたい、人の意識というものは、同じことをずっと考えることはできない仕組み
になっています。ちょっと試してみればわかります。
たとえば、花のことを考えろといわれて、心に任意の花を思い浮かべても、
3分もすれば別のことを考えていることに気づくでしょう。チータのダッシュ
みたいなもので、持続力に欠けるのです。

先祖供養は祈りの集中化をはかるカタチ(舞台)である

その精神集中を助けるのが、身口意のカタだという話をしました。
心身をカタにはめれば、精神も集中しやすくなります。
雑然とした日常生活の家のなかで祈るより、ステンドグラスの荘厳な殿堂や
清浄な境内の神殿で祈るほうが、舞台効果で自己催眠をかけやすくなるものです。
瞑想をするとき、ホトケを念じよ、といわれても抽象的なホトケを心に描くのは
困難です。だから仏像や仏画があるのです。具体的な像を目に焼き付ければ祈念
しやすくなります。

墓参りというのは、一種のイベントであって、その前日から意識がそちらへ
向かっています。
何時に電車に乗って、どこそこでお供えを買って、時間をかけて歩いて、墓石を
浄め、花や線香を立て、そこでやっと墓前に佇んで、おもむろに手を合わせます。
手を合わせる前の一連の行動から祈りは始まっているのです。
遠い先祖なら顔も浮かばないでしょうが、身近だったお祖父ちゃん、お祖母ちゃん
なら顔を思い浮かべます。祈念はより具体的になり、そのぶん集中されます。

花や香や水(閼伽)を捧げるのが大事なのではなく、それらのモノは、精神を
集中させるための小道具なのです。向き合う墓石も、供物を買うための労働も。
面倒な労働も精神を集中させるための小道具だと考えればいいのです。
何もない空へ向かって祈るより、地平線から上ってくる太陽へ向かうほうが
祈りやすいものです。

極度に集中された念は物質化される

切羽詰まった祈りほど、念は集中されます。
たとえば、車にはねられても、かすり傷ひとつおわないで助かったという例が多々
あります。
「危ない!」
と人が思ったとき、意識は凝縮されます。その凝縮された念が、瞬間的に自分の体を
コントロールしたか、あるいは瞬時に潜在意識の奥まで潜って、この世の3D世界を
操作したかです。

念を極限まで集中させたとき、たんにお願いするだけではなく、イエスの成功法の
極意の祈りをするのです。
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおり
になります――」
あの実践です。

神仏や先祖に向かって祈るカタチにはなっていますが、その力を頼りにする
のではなく、頼るのは自分の祈りの力なのであって、これはあくまで自力、
もはや他力ではありません。
その自力のパワーをより高めるための舞台装置が、供養のカタチなのです。
そう思えば、供養なんて、と思う人や、他力を嫌う人にとっても有効になります。
どうせ、この世で社会生活を営んでいくかぎり、そのような儀式は欠かせない
のですから。うまく利用しましょう。

創立2周年記念「開運座談会」

2015/06/25

創立2周年記念

 開運談義

西海惇先生(波動機器開発&製品化アドバイザー)
丹波道彦先生(気功ヒーラー&総合波動鑑定)
奥谷俊介(㈱ヒーラーズラボ 代表取締役)

開運は霊的磁場環境の整備から

奥谷 今月は、弊社ヒーラーズラボの創立2周年記念特別企画として、先生お二人に開運について
お話を賜りたいと思います。よろしくお願いいたします。
丹波 早いものですね。おめでとうございます。
西海 2周年記念を祝うことができて何よりです。
奥谷 ありがとうございます。
西海 きょうは開運がテーマなんですね。
奥谷 はい。会員の皆様の関心は、やはりなんといっても開運です。今後とも、開運に関する情報を
貪欲に収集し、ご提供させていただきたいと思っております。
丹波 運をよくしたい、これは人類不偏のテーマですね。しかし、一口に開運といっても、なかなか
これは難しいテーマです。神社やお寺なら御札でも出していればいいのでしょうが。
西海 簡単に幸運を手にする方法が発見されれば、ノーベル賞がいくらあっても足りませんよ。
奥谷 では、先生には、ぜひノーベル賞をとってもらいたいと思います。
欲張りません。1つでいいですから。
西海 ではひとつ、がんばりましょう(笑)

開運祈願は安易な願いか

奥谷 しかし、開運祈願というのは安易な願いでしょうか。
西海 いやいや、そうは思いません。運をよくしたいという願いは、一億円が空から降ってきますようにとか、
宝くじがあたりますようにとか、万馬券が当たりますように、なんていう絵空事の他力本願より、
よっぽど健全ですよ。
丹波 そうですよね。
西海 仕事はバリバリやっているのに、どうも自分は上司に評価されないとか、例えばスポーツ選手なんか、
ふだんはいいタイムを出しているのに、ここぞというときにいつもガタガタになってしまうとか、
東大さえ楽に入れる偏差値なのに、受験日にかぎって熱を出して落ちてしまった、なんていう話が世間には
ザラにあるでしょう。
そういうのを運が悪い、不運、ツイていない、といいます。
奥谷 なるほど。
西海 日本人はたいがいマジメで、努力家が多いです。そのうえ謙虚なんですね。
「果報は寝て待て」「棚からぼた餅」なんて、言うのは好きでも、じっさい寝て待っている人はいませんよ。
「一所懸命やっているおれの仕事がもうちょっと評価されてもいいのに」という嘆息がほとんどでしょう。
奥谷 そうですね。みんな勤勉ですね。あんなに汗水流して頑張ったのに、おれはツイていないなあ、
いつも貧乏くじばっかり引いているなあ…、なんていうのはよく聞く話です。
西海 願うのは、しっかり自分がやっていることが、いつもきちんと評価されることなんですね。
さらには、少しは過大評価されてみたいもんだと。
奥谷 庶民的ですねえ。
西海 でも、そういう評価がちゃんと得られず、逆に仕事もちゃんとできない、ちゃらんぽらんなヤツが
出世してしまったりするというのが、これまた世間なんですなあ。
丹波 そういうのを運のいいヤツ、ツイているヤツ、といいます。
奥谷 不条理ですね。
西海 そう、その不条理。同じ努力や仕事をしているのに、一方は評価され、一方は評価されない。
女優のオーディションに友だちを誘って行ったら、自分は落ちたのに、ただの見学だった友だちが、
たまたまそこでプロデューサーにスカウトされてしまうといったたぐいのシンデレラ物語がよくありますよね。
奥谷 ええ、あります、あります脚本家だったらとても書けないような、よくできたウソ臭い話が起こるのも
また現実なんですね。事実は小説よりも奇なり、と。
西海 不条理だけではなく、そんな偶然の幸運(ラック)もまた世間では少なからず起きます。
乗るはずの飛行機の時間に、たまたまトラブルに巻き込まれて乗り遅れたら、その飛行機が墜落して
全員死亡とか。ちょっとした運命のイタズラで、命拾いしたという例は枚挙にいとまがないです。
まさにこれこそ、幸運の女神の真骨頂なんですね。誰しも、幸運の女神には嫌われたくないでしょう。
奥谷 それどころか、女神さんの好きなものを貢いで気を引きたいです。
丹波 運をよくしたい、というのはさほど真剣な祈願にならない半面、半分は切実な願いなんです。
奥谷 つまり、自分が何もしていないところに、突然遺産が転がりこむようなうまい話よりも、
自分の能力や努力が、もっとうまく世間に評価されたい、そういう意味の運をよくしたい、
さらには高所から落ちても、たまたま通りがかったトラックの荷台の干し草の山に落ちて傷ひとつない
というような、そんな幸運を求めるのは当然というわけですね。
丹波 そうそう。なにも打ち出の小槌がほしいといっているんじゃありません。
開運を求めるのは、庶民の願いとしては健全ですよ。
奥谷 べつに強欲な話じゃないんですね。

幸運の女神を飼い馴らせ

西海 幸運の女神は、じゃじゃ馬みたいなもので、こっちが自信をもって命令してよく飼い慣らせば、
一瀉千里(いっしゃせんり)の名馬になるといわれています。
奥谷 幸運の女神を飼い慣らすんですか。
西海 女神とはいえ女ですので、強い男の鞭に従います…、というのは冗談ですが。
運といえば抽象的ですが、運勢といえばわかりやすいでしょう。
奥谷 好不調の波ですね。バイオリズムというか…。
丹波 宿命は変えられないけれど、運命や運勢は変えられますからね。
西海 でまた、運勢をよくしていけば、運命もよくなっていくんです。
奥谷 なるほど、開運法といえばえらい難題でも、運勢といえばなんとなく生理学のような、裏ワザで
操作できるみたいに身近になる気がしてきます。
では、その方法は? という話になりますが。

場の問題

西海 アプローチは色々あります。このところずっと私が研究していたのは、場、すなわち生活空間の
改善です。これをよくしないと始まりません。
ごく卑俗な言い方をしますと、例えばね、いま住んでいる土地がかつての刑場だったとか墓だったとか、
古戦場で無縁仏が埋まっているとかの、死者の怨念の波動が残っているようなところでは、そこに常時
身を置いていれば、その生命力が削がれるんです。植木だって枯れますよ。生命力が削がれるんだから、
運気だって削がれてしまうんです。
そういう不吉な場所に住んでいた人が、病気になったり会社が倒産したり、なんていう例を沢山見てきました。
そういう人たちが、その土地を離れて引っ越ししたら、また元気になって経済的にも復活した例をずいぶん
見てきたわけですね。
丹波 霊的なケガレチみたいなものですね。
奥谷 楢崎皐月「イヤシロチ・ケガレチ」の話ですね。土地には生命にとってプラスになる「いい場」と、
マイナスになる「悪い場」があるという。あれはなんらかの電気的な特性を持つ場の話でしたが。
土地に染み付いている死者の残存思念といえば、私たちにはわかりやすい話ではあります。
丹波 いわく因縁つきの土地、というわけですね。
西海 邪気の悪い波動のある土地ということですが、私はそういった一定の土地や家屋が持つ固有の波動を、
手っ取り早く磁場と表現しています。
奥谷 磁場ですか?…
西海 ええ。そういう霊的な場だけなら悪因縁の土地とでもいうんでしょうが、それだけではありませんので。
ケガレチの電気的に悪い環境や、高圧電線下のような低周波の電磁場もあるわけですから。
土地建物の場は、霊的、風水的、静電気や電磁場、化学的な様々の条件が複合されているんです。
奥谷 化学的といえば、いま東京で豊洲に築地市場の移転工事をやっていますが、あの土地は土壌汚染
されていたということで、土の入れ替えをやらなくちゃいけなくなって大変だったみたいです。
西海 そうそう。工場の跡地で、鉛や水銀、六価クロムが検出されたんですね。
あれはモロに化学的な毒物だから科学的に悪いと断定できるし、それなりに物理的な対処もできるんです
けど、目に見えない、科学的には検知できない悪い波動というものがあるわけでしてね。
そんな悪い場所では、原因もわからないまま、したがって対処もままならず、ジワジワと知らないうちに健康が
害されることになるんです。
幸運の女神なんてまず寄り付きませんよ。
丹波 少なくとも、神道の神は不浄を嫌うので、寄り付きません。
奥谷 霊的なケガレチは、霊的磁場とでもいいたいところですね。少なくとも、生活の場が、そういう悪い波動の
環境下では、まず運勢は削がれるということですね。
西海 電磁場の「電」と「霊」というのは、科学と迷信みたいで、相容れないはずなのに、どっちも「雨」が入って
いるでしょう。
奥谷 ああ、そういえば。いまにして気付きました。
西海 その「雨」というのは、空間に漂う微細なエネルギーを表していると思うんです。
奥谷 電気も霊も、微細なエネルギーでできていると。
西海 というか形状化されないエネルギー体、固体として形をとらないエネルギー波動なんですね。
丹波 要するに、「気」です。
奥谷 なるほど。
西海 ビリビリするのは電気で、ゾクゾクするのが霊気なんです。

開運も機械化の時代に!

奥谷 では、そういう土地の改善法の話になりますが――。
丹波 そういう悪い土地には、埋炭といって、炭を埋めたり敷き詰めるという方法があります。
奥谷 マンションなら無理ですね。
西海 悪い磁場をよくし、幸運を招くにはどうしたらいいか? しかもそれをできるだけ簡単に、
というのが長年の私のテーマであり、これまで製品もいくつか発表してきたわけですが、
最新作の「テラフォースΩ」はぜひお使いいただきたいと思っています。
場をクリーンにするということは、それによって環境がよくなることですから、そこに住んでいる人は、
目に見えない重石が外れて、心身が健康になって幸運力も増してきます。
それだけではなく、環境浄化に対する感謝を地球からもらえるんです。
奥谷 ほう…。
西海 仏教的にいえば、いわゆる徳を積むことになるので、幸運の女神も応援してくれます。
ということで、これは「紹運機」になるんですね。
丹波 開運マシンですね。
奥谷 土地の悪い気を掘り返して浄化し、幸運の地ならしをすると。まさに幸運の耕運機なんですね。
幸運トラクターというわけですか。
西海 だったらもう、そのまま「幸運機」でいいじゃないですか(笑)
奥谷 なるほど(笑)
丹波 そうですね(笑)
奥谷 先生はかつて、「気は工業化の時代に入った」というキャッチフレーズで、気や波動の世界を
驚かせたものですが。あれは実にエポックメイキングだったと思います。
丹波 ほんと、あれには驚かされました。西海先生とのお付き合いは、そのときから始まったんです。
いまでも驚きの連続ですけどね。
奥谷 反発もあったでしょうが――。
西海 清新な風を吹き込んだんですよ。
丹波 波動の世界なんですから、波風起こしてなんぼのものなんですね。
奥谷 それどころか、こんどはついに「幸運も機械化の時代に!」ですね。
「ハッピーメイキング・バイ・ハッピーマシン!」
西海 いいですね。
奥谷 弊社としても、この「テラフォースΩ」をぜひ普及させていただこうと思います。
会員の皆様がこれからもさらに幸せが招かれますように、先生がたもさらなるご協力、
どうぞよろしくお願いいたします。

『人は死なない』を読む

東大医学部教授が語る霊の存在

『人は死なない』という本をチェックしました。

2年ほど前から、新聞の書籍広告欄に掲載されていたこのタイトルがよく
目にとまっていて、ずっと関心があったのですが、やっと目を通しました。

「人は死なない――ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索」という
タイトルもインパクトがありますが、著者の肩書がまたすごい。
東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授
医学部附属病院救急部・集中治療部部長

帯にはこうあります。

神は在るか、
魂魄は在るか。

生命の不思議、
宇宙の神秘、
宗教の起源、
非日常的現象。

などとあるからには、これはチェックしないわけにはいきません。
どれどれと開いてみれば――、
肉体を超えた霊的存在を示す事例が記されているんだろうとの予想どおり、
いくつかのエピソードが紹介されていましたが、それらの霊的事例は、
TVをはじめとしたメディアで語られてきた話から比べると、とくに奇抜な
ものでもなく、そういう体験をよくする人や、その手の話が好きな人には
いささか物足りなく思えるでしょう。

さすがに、つのだじろうや稲川淳二のような劇的な話はありません。
ということで、ビックリするようなエピソードがあったらここに引用しよう
と思っていたのですが、それはできませんでした。

自分自身の子供の頃の交通事故や、大学時代の雪山での滑落などで
九死に一生を得た体験をはじめ、患者の不思議な体験の聞き取りや、
霊的存在を示す先人の文献が、誇張されることなく、静かに…、というより
朴訥に記されています。

それにしても、医療現場最前線の、人の生死に深く関わってきた現役医師が、
しかも開業医でもない勤務医で、それもまた東大病院の教授という
アカデミズム最前線の肩書の立場で、実に率直に、自身の体験に真摯に向き
合い、肉体を超えた存在を想定しなければわかりえない人の命の奥深さを
受け入れているのは、大いに傾聴に値いします。
だからこそ、多少話題にもなって版を重ねているのでしょう。

いまの肩書にとっては、そのような話を公表することは、叩かれることは
十分に予想できても、メリットはまずないはずです。
じっさい最近、患者に気功のようなことをしている怪しい医師、などといううような
週刊誌の広告の見出しを目にしました。まあ、読んでいないのでなんともいえま
せんが、気功ぐらいなら帯津良一氏もやっています。

亡き母親の降霊

もっとも、何かの宗教団体の信者で、その組織の広告塔になるとの思惑
でもあるなら別ですが。矢作氏に関するウラ取りはしていません。
『人は死なない』の本一冊をざっと読んだだけでの感想ですので、あしからず。

彼は「宇宙の摂理」を信じてはいますが、無宗教だと表明しています。
それは、「降霊」で言葉をかわした亡き母親とのこんな会話にも表れています。
もちろん、母親というのは霊媒を通しての「口寄せ」です。

「お供え物はしなくてよろしいですか?」
「ええ、要りません」と、母はいつもの調子できっぱりと言いました。
「私は摂理を理解しているつもりなので宗教を必要としていないから、
儀式らしいことを一切しませんがいいですね?」
「それでかまいません」
母は、大きく頷きました。生前の母は、弔いの形式などまったく意に介していなかった。

医療現場のなかでの体験より、プライベートの体験のほうが主に語られ
ています。キューブラー=ロスの臨死体験のような事例収集ではありません。
俗っぽくいえば、霊的世界に対する思索を持つようになったのも、もとを
ただせば、このお母さんからの血筋だったかもしれません。
本の最後にこう記されています。

寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で「人は死ぬ」が、霊魂は生き続ける、
という意味で「人は死なない」。私は、そのように考えています。

これはまったく同感です。
誰がいったのかはわかりませんが、そういえば、「人は死んでも人の記憶のなかで生き
続ける。人から忘れられたときに、人は本当に死ぬ」なんていう言葉がありました。
「不幸なのは捨てられた女ではなく、忘れられた女だ」なんていう言葉もありますが、
そんな文芸的な話ではなく、霊魂や魂魄という名称はともかく、肉体から独立して生きる
存在が、物理的にあるんだということへの思索が生真面目に語られています。

繰り返しますが、けっしてその内容は目新しいものではありません。
しかし、東大の現役教授として、ショーアップされるわけでもなく、まるで自費出版本
のような素朴な体裁で真摯に語られていることが、むしろ耳を貸すべき情報だと思います。
それ以上に私が関心をもったのは、次に示す自問でした。引用します。

ところで、霊魂は不滅である、つまり人は死なないとしたら、なぜ医療が必要なのでしょうか。
この世がこの世限りなら、いつ死んでもよいはずです。あるいは、もしひとの生があの世まで続くなら、
どうせ行くあの世にいつ行ってもよいと思う人もいるのではないでしょうか。
だとすれば、無理に医療などでこの生を伸ばそうとする必要はないのでしょうか。

もっともな自問です。自分としては医療を通して利他行為をしてくことが、自分の人生の目的の
ひとつだと語っていますが、「人にとって医療は必要なのか?」という疑問への答えはありませんでした。

霊界の宣伝マンなんていう人もいました

以前、かの丹波哲郎は「霊界の宣伝マン」と自称して、バラエティ番組などでことあるごとに霊界話を
していました。あの霊界シリーズ本はベストセラーになって、『大霊界』という映画までできました(残念
ながら未見ですが)。

そういえばずいぶん昔になりますが、この宣伝マンとして活躍されていた頃、西荻窪の丹波邸近くの
書店で、たまたま大先生を見かけたことがあります。
普段着で散歩のついでに立ち寄ったような風情でしたが、まったくTVで見るあのとおりの口調と抑揚で、
レジの店員に自分の本を手にし、熱く語っているのです。
「いやいやいやいや、こういう世界がだね、まさにあるんだな、これが」
まあ、そんな調子で。

この丹波大先生から比べれば、矢作先生は素朴なものです。
霊的な話は、昔からけっこうみな好きです。
ただ、この手の話は、リアルともファンタジーともつかない、たんなるスピリチュアル・エンタテインメント
にもなりかねないわけです。私たちは、そういう意味では、オカルトや怪談話が好きですから。
こういう科学者によって、客観的にコツコツと記述されていくことが、たんなる怪談でも心理現象でもない、
ちゃんとした物理現象であることの、リアル側からの宣伝(啓蒙)になるのだと思います。

形への愛

命をこめればアートになる

日曜の夜、なにげなくTVをつけたら、目が釘付けになってしまいました。
TBSの『情熱大陸』で、出演者のダンサーに目が離せなくなったのです。
途中からだったので、最初男だと思って見ていたら、女の子だったんですね。
失礼。

前回のブログは、形の力がテーマでした。
日本の伝統的な作法や立ち居振る舞い、仕草や身振りには美しさがありますが、
それが美しいのは、その形に「チ}が宿っているからだという話をしました。
そのいい例があったら映像で紹介したいと思って、茶道の茶筅の手捌き
などの動画を探そうかと思ったのですが、労を惜しんでやめたのです。

情熱大陸のダンサーは、菅原千春さんでした。もう世界的に活躍していて、
その世界では有名だったということで、改めて失礼。
目が釘付けになったのは、そのフォルムに力があったからです。
全身のフォルムばかりか、手先やつま先の細部まで。

「キレッキレ」だとか、アクロバティックというなら、このレベルはいくらでも
いるでしょう。
でも、彼女のダンスが目を引いたのは、それがアートだったからです。
彼女自身もまた、自分はアートをやりたいんだと語っていました。

たんに美しいだけではなく、そこに命が込められている、魂が宿っている
――それをアートと定義しましょう。
魂が宿る――、それは自分の魂が込められているだけではなく、その魂に
目に見えない宇宙の力が呼び込まれ、注ぎ込まれているような気がします。

これを神秘主義的にいえば、アートマン(魂)にブラフマン(宇宙)が感応
するということです。
つまり、ヨーガの原義ですね。
個(小宇宙)の躍動のなかに、普遍的な宇宙(大宇宙)のオーラを見る。
だからこそ、目が釘付けになるのです。

指に命を注いだら指一本だけでダンスになる

ダンスについて、彼女はこういっていました。
「指に命を注いだら、指一本だけでダンスになる。(ひとつの動作に)どれだけ
命を注ぐかでダンスになる」
この「命の注がれた」ダンスを、アートと彼女はいうのでしょう。

この回の『情熱大陸』は、ネットで見られます。
(ただし、7月5日(日)の22時45分まで。蛇足ですが、次回は高田純次。
高田純次はファンなので、ぜひ見たい)

彼女のダンスは、YouTubeにも沢山アップされていて、みなかなりの再生
回数になっています。
https://www.youtube.com/watch?v=0CXKClVW7lo
この動画のコメントにこんなのがありました。
dancing with heart is better than just a technical dancer
(拙訳)「心のこもったダンスって、たんなる技巧的なダンサーよりずっといいよね」

『情熱大陸』では、新作創作中のスタジオにカメラが入っていて、新しい曲をどう
解釈したらいいか、その振り付けに苦しむ姿が映しだされていました。
サビで「デザイアー」というシャウトが繰り返されるのですが、その叫びをどう
解釈していいのか、そこに悩んでいたのです。
そちなみに、その曲がカッコよかったので、全曲聴きたいと思って探したら、
Years&Yearsの『Desire』という曲でした(もう一千万回以上再生されてるんですね)
https://www.youtube.com/watch?v=6nJCF01b510

空手道のカタにこもる力

形の力といえば、同じパフォーマンスでも、まさに「カタ」の名そのもので、
演武のカタがあります。
以下に紹介するのは、宇佐美里香さんの空手道の「カタ」です。

この演武もまた感動モノです。日本女性、すごい。
この映像の紹介文にはこうあります。

映像は去年(2012年)の11月にフランスのパリで行われた、
第21回世界空手道選手権大会、女子個人「形の部」決勝の模様で、
見事優勝を果たした宇佐美里香さんの形が収められています

このコメントにこんな言葉がありました。
Indeed, performing a kata is not like performing a breakdance move.
It’s a form of meditation(後略)
(拙訳)「ホントにね、カタの演武って、ブレイクダンスの動きを演じるようなもんじゃ
ないんだよね。それは瞑想のカタチなんだよ」
このコメントをした人が菅原小春さんのダンスを見たらなんていうでしょうね。

ブルースの基本形は「おれの話を聞け」

『情熱大陸』が終わってから、『ヨルタモリ』にチャンネルを換えると、
糸井重里がゲストで、ちょうどブルースの話をやっていて、ブルースのカタ
というのは、結局みんな「俺の話を聞け」なんだと語っていました。
なるほどね。
「俺の話を聞け」というのは、いうまでもなくクレイジー・ケン・バンドを踏まえて
いるわけです。

そこで、急に宮沢りえがブルースをやろうということで、ギタリストが
ブルースコードを鳴らし、タモリもコンガを打ちます。
バーのママ、いつもモダンな和服のりえさんは、それに合わせてこんな歌を
うたいはじめます。歌詞は正確ではないですが、だいたいこんな感じ――。

♪男はみな着物姿の女がいいっていうけど、
パッチはいて、襦袢着て、帯しめて、どんだけ時間がかかるっていうの
それを簡単に男は解くの
解いてよ
解いて解いて解いて解いて
着物だけじゃなくて、あたしの心も
解いて解いて解いて解いて、
それができるのはあんただけ~♫

歌はへたでしたけど、もしこの詞がシナリオにはないアドリブだったとしたら、
これはすごい。アートではないとしても、これはこれで芸ですね。