形の力

江戸しぐさはなかった

「江戸しぐさ」というのは聞いたことがあると思います。
あれはでっち上げだったんですね。そんなものはなかったんです。
http://friday.kodansha.ne.jp/archives/37754/

「江戸しぐさ」についての本も出ていますし、去年から小学校の道徳の教科書
にも登場していたのですが、捏造だとわかって、来年からは削除されることが
決まったそうです。正直、私もだまされました。
私が「江戸しぐさ」という言葉を知ったのは、いつからだったか。
そんなに昔ではありません。せいぜい十数年ほど前ぐらいだったでしょうか。
子供の頃も、青年期にも聞いたことはなく、突然出てきた話で、ああそんな
粋な心意気があったのかと、さすがクールジャパン、なんて思ったものですが、
おっと、当時クールジャパンなんていう言葉はなかったですね。
あぶなく捏造するところでした。

「江戸しぐさ」といえば「傘かしげ」というくらい、傘かしげは有名になり
ましたが、私がいままで記憶に残っていたのも、せいぜいその傘かしげ
ひとつぐらい。
狭い路地にひしめく江戸っ子の、軋轢をさけるための生活の知恵、譲り合いの
心ということで、いまに通じる道徳マナーの教本のように語られていました。
でも、そんな伝統がなくたって、それってふだんからやっていることだよな…、
と、ちょっとは思った覚えがあります。
だいたい狭い歩道ですれ違うとき、どちらか、あるいは互いに傘を傾けなけ
れば通れません。と、何をことさら…、という思いがあったのは事実です。
いつの時代、どこの国でもそれは同じじゃないの、と。

いったいどんな思惑なんでしょう。たんなる日本びいきならいいのですが、
そんな「江戸しぐさ」は、文献には一切残っていないのです。
落語にもなかったし、口承でもありません。
では、「江戸しぐさ」は、どうしてこれまで人々の口にのぼらず、廃れて
しまったのか?
それは明治維新時、そのクールな文化を敵視した官軍によって、江戸っ子
たちが大虐殺され、生き残った者たちも各地へ散っていったからだという
ことになっています。
荒唐無稽ですね。初めて聞きましたわ。いったい、どうしてそんな稚拙な
偽物語まで作らなければならなかったのか。それが奇妙です。

陰謀だらけ

世の中は、それぞれの思惑によって、あったことがなかったことにされたり、
なかったことがあったことにされることが多々あります。陰謀だらけです。
国際問題の絡む歴史においては、こういうでっち上げはいくらでもあります。
スパイ大作戦のような策謀なんて、国家間では当たり前。
外交は、基本的に片手で握手で、片手で殴り合いですから、騙し合いです。

客観的な歴史事実(ファクト)だけは、ファクトとして確定してほしいもの
ですが、交通事故でさえ、それがもし警察関係者によるものだったら、現場
検証のデータさえ歪められてしまうことがたびたびあるのですから、人の
思惑を除いた客観的な歴史の検証は、なかなか難しいものがあります。
なにしろ、物理や化学のように再現できないので。
しかも、自分らに都合の悪いファクトが新たに発見されて、歴史が見直され
そうになると、「歴史修正主義」といって叩きます。便利な言葉です。
いや、新たな資料が出てきたら、書き換えられるのが歴史というものです。

美しいかたち

日本人の立ち居振る舞い、しぐさや作法で美しいと思うものは多々あります。
襖をいちいち座って開け閉めするその両手の動き。
茶筅の素早い手さばき。
懐紙を挟む唇…、なんて、これは美しいというより艶かしいか。
不合理で因習と区別がつかない部分もありますが、手順や所作など、
伝統的に継承されてきた形には、洗練された美がありますし、いささかの
スキもない力強さがあります。

スポーツのフォームは、体のバランスをうまく保ち、より高く、より速く、
より強くなるための合理的な形になっています。
それが武術となるとなおさらです。相手を制するために、命がけで練られ
てきた形なのですから。
華道、茶道、書道をはじめ、舞踊、能、歌舞伎、狂言などの伝統芸も、
みな形から習うところから始まります。

カタチというのは、カタに「チ」が入ったものだという説があります。
チというのは、血であり霊。霊はチと呼びます。力のチでもあります。
そういえば、チはほかにも、地、乳、知など、生きるうえでの大事なモノ
にあてられた言霊になっています。
模型の型(カタ)というのは、チが入っていないからこそ、ただの模造
なんでしょう。

何事においても、初心者の弟子たちに、指導者はよくカタが出来ていないと
叱ります。カタを身に付け、修練していくうちに、やがてそこにチが込められて
いくと、力の出るカタチになるわけですね。
その形を守ってさらに修練を重ねていくうちに、やがてその枠に収まらない
個性が現れてきて、形を破る時期がやってきます。新たな一門をなすわけです。

形を守り、形を破り、師から離れていく。
それを「守・破・離」といいます。
本ブログのモットー、「常識に照らし、常識を疑い、常識を超える」というのも
この「守・破・離」に拠っています。

本物はみな、独自の形をつくるものです。
そのためには、まずカタに霊(チ)が入っていなければいけません。
同じカタでも、力が肩に入っていれば、力は出ないみたいですけどね。

三次元の物質であるからには、モノはみな形があります。
道具を見ればわかるように、モノにはその機能にふさわしい形というものが
あります。

形に力が宿るのは、その形が空間の潜在エネルギーと共振するからです。
そこに私たちは美をみます。
美しいフォルムには「チ」が宿っているのです。
チ、すなわち、それもまたアカシャエネルギーです。
その意味で、チはまた「気」でもあります。

ギョッとしたかたち

最近、というか、前から気になっていることがあります。
お辞儀のなかで、両手をお腹で組み、両肘を張り出して頭を下げるポーズを
あちこちで見かけます。あれは一体いつから流行りだしたのでしょう?
昔から、デパートのエレベーターガールがやっていたような記憶がある
のですが。航空会社の客室乗務員もそうだったでしょうか。
どうも、何を根拠にしたのか、それが美しい作法だということで、
マナー教室などでデフォルトのお辞儀として教えられているそうです。

お辞儀(礼)というのは、両手を体側に沿って伸ばしたり、あるいは膝頭へ
すっとすべらせるように伸ばしたりするのが普通だったはず。
歌舞伎役者や能楽師などの紋付袴の人たちが、あのお腹で手を重ねる
お辞儀をする姿を想像すれば、ずいぶん違和感があるのがわかるでしょう。

先日も、近所のファミレス、某華屋与兵衛で、社員らしきウェイターに、
お腹で手を組み、肘を張り出したポーズでずいぶん慇懃(いんぎん)に
お辞儀をされて、ギョッとなったものです。
「お腹、だいじょうぶですか?」
と、思わず声をかけそうになりました。

さすがにこれは私だけではなく、気になっている人は多いようです。
そんなところに堂々と流れたこんなTVCMが、ちょっと前、ネットで話題に
なっていました。

さすがにこれはないでしょうねえ。
百歩譲って、これが礼だとしたら、謝罪の礼ではなくサービスの礼です。
「申しわけありませんでした。ではお詫びに、これからお肩を揉ませていただきます」
というお辞儀です。

同じ頃、アサヒ新聞でも、正しい礼の仕方として、肘を張り出したそんな妙な
ポーズをイラストで紹介していたのには驚きました。
いまネットを探してみたら、同じく疑問に思った人がブログにそのイラストを
掲載していました。
イラストは無断掲載ダメとのことで、アドレスを貼っておきます。
http://tukasagumi.exblog.jp/24357389/

これをきっかけにあれこれ調べてみたら、なんと某アサヒ新聞は一貫してこの
妙なお辞儀を推奨しているんですね。以前から確信的にやっていたようです。
http://www.asahi.com/job/syuukatu/2013/pose/gallery/20111215/#title5

古めかしい写真が載っていて、こういう雰囲気が嫌いな人には恐縮ですが、
このサイトが詳しいです。
http://blog.goo.ne.jp/chaos1024/c/f59caf897cdabe8b9b66ca39148c5241

必ずしも、伝統のすべてが無条件にいいとは思いませんし、実生活では簡略化
してアレンジしてもいいとは思います。しかし、どうもこの肘張りお辞儀は、
日本の伝統的な作法に対する挑戦であることは間違いないように思えます。

江戸しぐさならぬ、平成しぐさとでもいいましょうか。
これでは力の入らない、すなわち「チ」のないカタチであり、
アカシャエネルギーは流入しないでしょう。
日本人霊(チ)抜き計画、骨抜き謀略だとうのは、いささか肩に力の入った、
アタマにチが上った陰謀論にすぎるでしょうか。  了

お知らせ/開運も機械化の時代に!

ヒーラーズラボ2周年を迎えるにあたって、開運座談会が行われました。
(ヒーラーズラボ「information」に記載しています)
出席者は、以下のとおり。

❐西海惇先生(波動機器開発&製品化アドバイザー)
❐丹波道彦先生(気功ヒーラー&総合波動鑑定)
❐奥谷俊介(㈱ヒーラーズラボ 代表取締役)

開運は「霊的磁場」のクリーンナップから

運をよくするには、何よりもまず、生活空間である土地建物の
「霊的磁場」が清浄でなければならないことが語られています。
さらに、波動機器開発の第一人者、西海先生より、
開運(幸運)を招くのはもはや神頼みの時代ではない、
機械化の時代なんだということで、
生活空間の場をクリーンナップし、幸運を招く装置――、
つまり“開運装置”「テラフォースΩ」を提供していただきました。
ヒーラーズラボの新製品です。

この波動回路には波動素子の1つとして、人工鉱石テラヘルツが内蔵
されているのですが、「テラフォースΩ」のこのテラは、
テラヘルツのテラであると同時に、地球(テラ)を意味しています。

フォースは力ですから、テラフォースは直訳すればテラの力となりますが、
テラフォースというとテラフォーミングが連想されます。
他の天体を、人間が住めるように作り変えるという壮大な計画ですね。

私たちがふだん寝起きしている街なかの家や土地は、あまりにローカルで、
地球どころか大地なんていうイメージさえ忘れています。
いま自分はどこに立ち、どこで寝起きしているのか?
それは、太陽のまわりを回っている一惑星地球、その地表上の一角である
ことに間違いありません。

天体上のわずかな一角だとはいえ、そこに霊的浄化の結界を張るような
イメージを持つと、地球をきれいにしているような気になります。
というか、むしろそんな気持ちで心を広げて、自分と地球をつなげ、
俯瞰して眺めるイメージを持つことが、潜在意識に通じる一種の瞑想に
なるのです。

つまりそれは、アカシャエネルギーが潜在意識に感応するにふさわしい
意識状態でもあります。
そういうときこそ、天のエネルギーが潜在意識をあまねくテラ(照ら)し、
「思いは実現する」という宇宙法則が発現する奇跡の瞬間になります。
あなたの思い描くように、テラフォーミングがなされるのです。

悪い波動の場(フィールド)をクリーンナップすると同時に、あなたの
意識波と共振し、そのイメージを実現させるフォースを発動する――。
それが「テラフォースΩ」です。

「国際ヨーガの日」に思うこと

6月21日は、国連で「国際ヨーガの日」と制定されてから
第1回目の記念日ということで、
その制定を呼びかけたインドのモディ首相の顔写真入りで、
某紙にこの記念祭の全面広告がありました。
日本のヨーガ人口は351万人にもなるんですね。

また、19日には18歳選挙権の施行が公布されました。
この2つの出来事から、こんなことを考えたのでした。

カモになる18の春

高校を卒業して大学に入ると、キャンパス内外で、色んな勧誘がやってきます。
18歳で選挙権が得られるというのは、18歳はもう大人だという考えなんでしょうが、
実社会を知らないとういうことでは、まだまだ子供です。
世間で手ぐすね引いて待っているのは、妙な募金をはじめ、ネットワーク
ビジネスやら、英会話や自己啓発セミナーなどの講座などで、ちょっと気を
許せば数十万円がむしり取られます。
だから高校では、卒業前に悪徳商法対策の講習を行うべきだと思います。
クラブの新人募集でも、宗教団体の下部組織になっている場合もあるので
要注意です。
静かな地方から都会に出てきたばかりの、まだスレていないウブな新入生で、
しかも一人暮らしなんていうのは、とくに友だちもほしい時期なので恰好の
カモになります。

そうそうカモといえば…、なんて、しょっぱなから脱線してしまいますが、
この広告を見て、わたし、泣きましたね。去年の末に話題になった広告です。

ああ、なんてけなげなカモさん。
いや…、カモじゃなくて鶏…、比内地鶏専門店「とりしげ」の広告です。

では、ねきまになってきます。

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▼あ、けさ産んだ卵も持ってくればよかった。

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▼こんなところで食べられるわけにはいかない。

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▼どうもー、食材です。

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宗教セールスの宗教知らず

カモがネギを背負ってやってこなくても、ネギだけでも向こうから来てくれれば
おいしいのですが、やって来るのはこちらをネギマにして食ってやろうという
悪どいセールスマンばかりで、ほかにも宗教の勧誘が甘い言葉でやってきます。
高校でもし道徳の授業があるなら、宗教学を教えるべきですね。
きちんと体系的に宗教のイロハを学んで免疫をつけておけば、
あやしい新興宗教がやってきても、ある程度ガードができます。

勧誘というのは布教活動ですから、そこまで活動できる者らは、みな洗脳
されています。自分たちは善であり、まだ目覚めていない闇のなかの人々に、
光の善導をしにやってきているんだと思い込んでいる連中です。
また、そうでなければ、わざわざ人を説きになど来れないでしょう。
たんなるセールスと違って、そこが厄介なのです。

しかし、そういう者にかぎって、宗教の常識的知識に欠いています。
教団セクトのトンデモな知識はバッチリ暗記していても、たとえば仏教系なら、
本家本元のゴータマ・シッダルタのことを知りませんし、キリスト教系なら、
イエスのことを知りません。セクトが書き換えた偽書の聖書は熱心に読んでいても、
共同訳の新約聖書すら読んでいません。
そういうのは、基本の生理学を知らないやぶ医者のようなものです。
大局を知らないインチキセクトだと客観的に眺められれば、もはやだまされは
しないでしょう。

とはいえ、こと宗教に関しては、どんなに高偏差値のエリートでも、絡められて
しまう落とし穴があるので、頭がよい人ほど気をつけなければなりません。

自力か他力か

古今東西を問わず、宗教を分類するうえでの基本中の基本は、自力か他力かです。
最低、そのくらいは知っておくべきです。
原始仏教は、みずからが心身の修行をして解脱をはかるという自力の教えです。
キリスト教やイスラム教は、信仰と戒律さえ守れば神が救ってくれるという他力の
教えです。

自力の代表は、原始仏教です。
ところが、シャカ没後、仏教は次第に変質していきます。
修行は大変で、シャカのように出家でもしなければ、同じような修行など
できないということで、大衆も在家でありながら解脱しブッダになれるので
なければならないという設定にしました。いまでいうポピュリズムですね。
そこで、簡易化がはかられることになったのです。
難行に対して、これを易行といいます。

シャカはけっして信仰など説かず、とにかくひとりで黙々と修行しなさい、
というだけです。有名な「犀の角のごとく歩め」ですね。
「人に依るな、法(ダルマ)に依れ」と。
だからもう、マントラを唱えて戒律さえ守っていればブッダになれるなんて
いうのは、シャカの仏教ではありません。
浄土真宗ともなれば、念仏さえ唱えれば極楽往生できるというのですから。
こうなったら、もはやキリスト教とどこが違うのでしょう。

仏教系の新興宗教で、教団創始者への崇敬が前提とされていたら、
まずそれは胡散臭いです。
そんな団体がしつこく勧誘してきたら、「私はシャカの仏教しか認めません」
といってやれば、たいがいケリはつくと思います(つかないカモ)。

キリスト教は、人類の原罪を自分の命と引き換えに帳消しにしてくれた
神の子イエスへの信仰がすべてです。
新約聖書――、すなわちイエスは、異教徒も愛せという隣人愛を説きます。
これは当時としては画期的な思想であり、いまでも通用する驚くべき宗教革命
ではあります。しかし、それはそれとして、現代人なら、たんに信仰するだけで
パラダイスが約束されるという理屈が、とうてい理解できません。

それにイエス自身が、30歳を過ぎてキリストとしてデビューするまで、
エッセネ派という瞑想中心の修行を重視する、ユダヤ教の一派の共同体に
属していたという説があるのですから。十字架にかけられたことで、
人類すべての罪が贖(あがな)われたという聖書物語を信じるほど、
現代人は素朴ではないのです。

自力も他力も瞑想は欠かせない

このように、自力と他力は水と油のようです。一見、まったく相容れない
ように見える教えなのですが、そこにわずかながら共通点を見いだせます。
わずかに残っているその共通点は、やはり多少なりとも自力がなければ
始まらないことを示唆しているように私には見えます。

シャカが修行したのはヨーガです。
最近ブームのヨーガですが、カラフルなマットを敷いてポーズをとっている
風景をメディアでよく目にします。
しかし、ヨーガというのは、あのようなポージング(アーサナ)中心の健康
ヨーガ(ハタ・ヨーガから発展したパワー・ヨーガ)だけではなく、いくつか
種類があります。ヨーガは、たんなる筋トレやストレッチ的なエクササイズ
ではないのです。

シャカがやったのは、ラージャ・ヨーガやクリヤ・ヨーガ、体の深部に
エネルギーを着火させるクンダリーニ・ヨーガなどの伝統ヨーガです。
この内なるエネルギーこそ、宇宙から流入するアカシャエネルギーなのです。
これについては話が長くなるので、詳しくはまたの機会に譲ります。

シャカは7年間苦行をした末、断食をやめ、体力を回復させてから瞑想に
入ります。その瞑想で覚者となり、解脱にいたります。

修行者の瞑想にはカタチがあります。手に印(ムドラー)を組み、
口にマントラを唱え、意(こころ)の奥深くへと沈潜します。
密教的にいえば、身口意(しんくい)の三密がそこにあります。
その三密が深く集中されたときに、アカシャエネルギーが流入し、
一気に解脱力を得るのです。
「私のことなんて信じなくていいから、あなたたちもそれをおやりなさいな」
というのがブッダの教えなんですね。
そうすれば、あなたたちもブッダになりますよ、と。

他力のなかにも三密がある

さて、他力の真髄(キモ)は信仰です。
その単純な構造のなかにも、三密はあったのです。

信仰のカタチは、神仏への祈りです。
信仰それ自体が大事なのでも貴いのでもないのです。

信仰は方便であって、大事なのは、その祈りの、精神集中の力です。
精神集中をさせやすくするためのテクニックが信仰なのです。
信仰は、洗脳のたまものです。
イエスは人類の救済のために、十字架にかけられた、という物語は、
情に訴えるなかなか劇的なストーリーなので、心によく残ります。
それが祈りの力を補強します。

人が祈るとき、そこにはまず合掌があります(身)。
口ではイエスの名や念仏を唱え(口)、
パラダイスや極楽を思い描くわけです(意)。

私たち日本人は、何気なくお寺にお参りするときはもとより、
神社で願掛けをするときもこの身口意の儀式を自然にこなしています。
たとえ形骸化されているとしても、それだけは残っているのです。

どんなに簡素化されても、あらゆる宗教にこの三密は欠かせません。
祈りのない宗教があるのなら別ですが。
身口意の三密こそ、魂の昇華をめざすオカルティズムの技法です。

潜在意識をアカシャエネルギーへ結びつける

深い瞑想は、アカシャエネルギーと感応します。そのアカシャエネルギーが、
この世の固い3Dビジョンを揺るがす、宇宙の潜在エネルギーなのです。
ヨーガの語源は、「馬にくびきをかける」に由来していて、個の意識を宇宙意識に
合体させることを意味します。

潜在意識とアカシャエネルギーとを結びつける、それが本来の意味だと私は考えます。
要は、自力にしろ他力にしろ、アカシャエネルギーを手の内にすればいいということです。
その根源のエネルギーを汲み出すのが、三密による祈念なのです。
ただし、身口意の身と口は、意密(意識・こころ)を集中させるための道具であって、
それらは絶対なければならないというものではありません。
要は深い瞑想――、すなわち潜在意識の奥の奥まで潜った意識の集中こそ
決め手なのです。

「心のなかで疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、
そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります」(マルコ第11章・23―24節)
とイエスがいうのは、たんに上辺の思いだけではダメで、深い潜在意識
レベルの確信がなければなりません。
当然そこには、アカシャエネルギーが感応しています。「一念岩をも通す」の、
揺るぎない思念のレーザービーム化がなければならないのです。

運を開く魔法の鍵

自力も他力も、瞑想は欠かせません。
瞑想は祈りといってもいいでしょう。
アカシャエネルギーに裏打ちされた瞑想力、祈りの力こそ、
運を開く魔法の鍵です。
そこで、イエスの言葉はこう書き換えられます。
「アカシャエネルギーと感応した潜在意識で、祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」

では、そのアカシャエネルギーを汲み出すにはどうすればいいのか?
潜在意識まで掘り下げる瞑想のテクニックとは?
当然、その話になりますが、それもまた簡単にできるようになったのです。
エネルギーなら機械で汲み出せる、そういう時代になったんですね。

長くなりました。その話はまたの機会に。

「お笑いセンサー」の効用と限界

限界

笑い続きで、もう一本。
笑いは、物事の正邪をはかる庶民の常識的センサーだということをずっと
話してきたわけですが、残念ながらそのセンサーはオールマイティーでは
ありません。

たとえば、政治において。
床屋談義といって、昔は床屋で政治談義をしたものですが、複雑で大量の
情報が錯綜するこの時代、世間話でラチが明くはずもありません。
各国の裏情報が絡み合い、騙し合い、出し抜き合戦が演じられている
国際ポーカーゲームにおいては、相手方の手の内の裏の裏の裏まで読み取ら
ねばならず、閣僚などは本来、極秘情報のかたまりであるはずです。
持ち手のカードを、うかうか外部にさらすわけにはいかないのです。

その腹まで探りを入れて論じるジャーナリストさえ読み間違えるというのに、
庶民などにはとても手の及ぶところではありません。
世間に降りてくる情報は、それぞれのマスコミの思惑に歪められた二次情報、
三次情報で、しかもそもそもデータが確かかどうかわからないのですから、
判断のしようがないのです。
判断しうるのは、せいぜい彼らのふだんの言行や風貌から、口先だけだとか、
腹黒さだとか、私腹を肥やしていないか――、などの漠然とした人物評価でしか
ありません。

精神世界系には通じる「お笑いセンサー」

それでも精神世界系には、案外、この笑いのセンサーは通じます。
カリスマ教祖や霊能者、スピリチュアリストなる存在には、最初から
かしこまる必要はなく、少しばかり笑いのネジを緩めて眺めたほうが
いいのです。それを別の言葉で、眉に唾をつけるといいます。

たとえば、教祖というのは、たいてい衣裳がきらびやかです。
それだけでもう、私なんか自然に滑稽感がわいてきてしょうがないのですが。

また、謙虚な人は少なく、まず尊大で過剰な自意識を持っています。
ほとんどが自分は人間以上の、神の化身だというようなことをいいます。
そこまでいわなくても、かつての偉人の生まれ変わりだとか、
なんとか菩薩や明王、なんとか大明神がバックについていると豪語します。

とくに笑えるのは、お釈迦様の生まれ変わりだという場合です。
輪廻転生を脱却した、すなわち解脱したのがブッダのはず。
かつて、ある教祖などは、冠を頭に載せて、「我こそはエル・カンターレ
なり!」と大宣言していましたが、もしそのパフォーマンス(映像)を目に
して失笑したのだとしたら、「お笑いセンサー」が正常に機能している証拠です。

オーラが強い人が貴いのではない

いや、うちの教祖はオーラが強いから本物だ、という信者さんもいるでしょう。
たしかに、何か威圧感を放っている人はいます。
威厳といってもいいでしょう。

けれども、ある人(Aさん)がこんな話をしていました。
その人もかなりの霊能力のある人のようですが、Aさんには大変信奉している
師がいました。その師の講演会で、ステージにAさんはじめ、取り巻きが何人か
並んでいたそうですが、それを客席で見ていた聴衆の一人から、その大先生より、
Aさんのほうがずっとオーラが強かった、といわれたというのです。

しかし、Aさんはこういいます。
いやいや、自分なんかたいしたことはない。オーラというのは、物質的な
部分から投射されているものであって、本当に霊性の高い人は、物質的な存在
から超越しているわけで、そのパワーはオーラには反映されない、と。

なるほど、面白い見解です。
そういえば、「オーラがある」という表現は、芸能人に対してよく使われます。
たしかに、芸能人には特別の華があります。
容姿のせいか、自信のせいか、メディアでよく見るスターという、こちら側の
心理が祭りあげているせいなのかはわかりませんが、なんとなくある種の威圧感が
感じられます。
そんな華や威圧感を一般にオーラというのでしょう。

でも、その本質的な霊性のレベルまでは、肉体にどっぷりと浸かっている
私たちには見抜けません。早い話、切った張ったのヤクザの大親分にも独特の
凄み(オーラ)があるということです。だからこそ、その迫力に幻惑され、
尊大であればあるほど、人は偉ぶり高ぶる教祖にだまされるのです。
山高きがゆえに貴(たっと)からず、人オーラ強きがゆえに貴からず、です。

専門分野ならお手上げ

見るからに疑わしいという人物はいます。
それは庶民の嗅覚でもわかります。そういうのはまず見た目でわかります。
たとえば近頃の例では、維新の党を除名された上西小百合議員、号泣会見で
話題となった野々村竜太郎県議。音楽分野ですが、佐村河内守氏もウソ臭さ
芬々(ふんぷん)でした。
では、もはやあの人はいま? の小保方晴子氏はどうでしょう。あの颯爽と
デビュー(!?)したとき、私たちの「お笑いセンサー」は働いたのか、働か
なかったのか。
あのSTAP細胞が本物かどうかについては、専門家でもないかぎり、まったく
判断のしようがなかったのですが、あのパフォーマンスをなにか胡散臭いと
思った人はけっこういたようです。

研究者のあいだでは、あのリケジョのパフォーマンスはともかく、小保方論文
自体に対しては、発表当初からネットに疑問があげられていました。
まあ、門外漢の私としては、専門家のやっかみもあるのかな、ぐらいにしか
思っていなかったのですが。
それでも、やはりどこか引っ掛かったのは、彼女のアンバランスな風貌だった
かと思います。もし、最近よくメディアに登場している東大卒の美人脳科学者、
中野信子氏ほどのかっちりとした端正さがあったとしたら、全面的に信じたん
だろうとは思いますが(蛇足ですが、彼女のサラサラヘアは、何か偽物くさい
なあ…と思っていたら、やっぱりあれはカツラで、その下の自毛は金髪に
しているんだとか! ロックが好きみたいです)。

それでも「お笑いセンサー」は見抜いた

本物か偽物か、その話題が持ちきりだったとき、ネットでこんなアスキーアートの
風刺画があがっていました。
アスキーアートというのは、いうまでもなく文字・記号で描いた絵です。
「顔文字」は、一行のアスキーアートというわけです。
複数行の複雑なアスキーアートをネットで見るたびに、いつも「こいつら、うめぇなぁ」
と感心していたのですが、そのなかでも、このアスキーアートは、スパイスがよく利いて
いて、舌を巻いたものです。何より彼女によく似ています。

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フランスでイスラム過激派のテロにあった政治週刊紙『シャルリー・エブド』
の風刺画より、ずっと上出来です。『シャルリー・エブド』の風刺画は下品で
面白味に欠けるのに、ともかくこちらは笑えます。
風刺としては、はるかにこちらのほうが上等です。

世間で、STAP細胞への疑惑が濃くなる以前、多少の胡散臭さはあったとはいえ、
もしそれが本物ならノーベル賞級ですし、本物であってほしいという気持ちのほうが
大きかったのですが、結局、この作者の笑いの直感のほうが当たったのでした。

どっとはらい。

笑いの効能

笑いの2つの効能

笑いの効能は2つあるという話をしました。
1つは、物事の善し悪しを判断するリトマス試験紙になること。
「これはおかしいんじゃないか?」と、直感的に首をかしげるときに出てくる笑いです。
「常識に照らせ」というのはそういうことです。
いくら王様だからといって、裸の王様を笑わないわけにはいきません。

もう1つは、邪気払いになることです。
笑いは「陰気」を払い、「陽気」を招いて貧乏神を払います。
それだけで、陽気の福の神がやってくる場が整います。
いや、それこそが迷信だろうという人もいるでしょうが、少なくとも笑えば免疫力がアップすることは、
生理学的にも確かめられています。抗活性酸素のビタミンCぐらいの効能はあるでしょう。
お笑いはココロのビタミンC――、なんて、ずいぶんありふれたコピーですが。

笑いのバリエーション

それにしても、笑いにも色々あります。
福を招くのは、アハハ…という愉快な笑いですが、それ以外に、照れ笑いやごまかし笑いがありますし、
「冷笑」や「憫笑」などの陰気な笑いもあります。そういうのはたいがい目が笑っていません。
人を蔑む冷笑や嘲笑はよくないですね。それは悪い気なので、相手ばかりか自分を傷つけます。

人のあきれた態度や言動に、思わず出てしまう「失笑」は、物事を判断するリトマス試験紙に通じるので、
冷ややかではあるけれども、これは別に悪いものではない。
「コンチク笑」というのは笑い顔で怒っている感じでしょうか。竹中直人が昔やっていたネタですね。
無遠慮にどっと笑う「哄笑」は、いささか下品な感じがしますか。

にこやかな微笑は、花が咲いている感じでいいです。本人よりも、まわりへいい雰囲気を醸し出します。
そうやっていつも過ごしたいものです。
含み笑いというのも、きれいなお姉さんにやられると、妙なホルモンが出てきそうです。
とくに美形の艶っぽい笑みは、「にほう」という言葉がふさわしいほど、蠱惑的なフェロモンを嗅がせ
られる気がします。そんなお姉さんは、虫を引き寄せる花なんですね。
人を惹きつける本物の花は、たえず笑っているのでしょう。

破顔一笑、呵々大笑。こういうのは健康的な笑いです。
拈華微笑(ねんげみしょう)という言葉がありまして、これはお釈迦様の謎かけに、弟子の迦葉(かしょう)
一人が気づいたという故事が由来で、以心伝心の笑いです。
おかしくて、くつくつ笑うというのも悪くはないです。
腹がよじれる、という表現がありますが、あれくらい大笑いすると、ほんとに何か爽快感があります。
鬱憤が晴れるというか。なんらかの健康ホルモンが出るからでしょう。
生理学的には、性的な快感と近いのかもしれません。

「生の」明るさ

某紙のコラム『ことばの食感』(中村明)に、こんな話がありました。

 里見弴の「椿」はこんな話だ。二十歳の娘と若い叔母が寝床を並べて寝かかっているとき、
近くでパサッという音がした。何の音か不明で二人とも不気味に思う。やがて、それが床の間の
椿の散った音とわかる。正体が知れてみると、怖がっていたのがおかしくなる。だが、夜も更けて
いて周囲の家もしーんと静まっており、大声で笑うわけにはいかない。堪らず漏らした笑いが
声にならずに波紋のように広がっていくようすを、作者は「笑いだした。笑う、笑う」、
「可笑しくって、可笑しくって、思えば思えば可笑しくって、どうにもならなく可笑しかった」と
反復によって女の息づかいまで読者に届ける。

こういう笑いも素敵です。

この小説を紹介していたあるサイトには、こうありました。
無邪気な女達の笑いは、世の中のどんな陰気で悲惨なことも覆すような『生』の明るさと躍動感に満ちている」。
そのとおりですね。短編ですが、小津安二郎の演出で映像化してほしかったものです。

白夜のラマダン

さて、ネットでこういうニュースを目にしました。このときもまた笑いがこみあげたのですが、
はたしてその笑いは、どんな笑いでしょう。苦笑か、皮肉な笑いか…。
少なくとも、健康的な笑いではありません。

ストックホルムAFP=時事】夏至の時期の白夜で知られるスウェーデンで、イスラム教徒が
18日前後に始まるラマダン(断食月)の対応に苦慮して いる。断食は日没まで行われるが、
白夜の期間は日没がないか、日はほとんど沈まない。どの時点で食事をするかが難しく、
スウェーデンや欧州のイスラム指導者が新たな指針の検討を急いでいる。

いまやイスラム教徒は、『アラビアのロレンス』や『風とライオン』で見たような、ラクダと砂漠の土地ばかりに
住んでいるのではなく、北欧にまで移住しているんですね。
断食は、朝から日没まで行われるのが決まりですが、北欧では日が沈まない白夜になるので、さあ、断食は
いつから始めていつ終わりにすればいいんだ? と頭を抱えているという話です。

本来、この断食というのは、ご飯もろくに食べられない貧しい民の苦しみを体験し、その苦しみを知ることが
目的だったはず。それを知ればこそ、貧しい人々に与える施しにも血が通うという趣旨です。
いまはたいがい、断食が明けたら、飲み食いのお祭り状態になるみたいなので、このラマダンも本来の意味が
すたれています。
これはイスラム教だけに言えることではなく、このような形骸化は、しきたりを重視する古今東西のあらゆる
宗教にあてはまります。
それがバシャールのいう、「地球人は制限の帝王だと呼ばれている」というゆえんなのです。

考えてみれば、ブッダもイエスも、世のしきたり、形式、常識から抜け出したヒッピーだったはず。
あらゆる束縛から自由になれと教える本家本元の師の教えのはずが、その弟子らが組織(ヒエラルキー)を作る
ことで、教えの本義は枯れ、形式だけが残っているという様に、本家カリスマらはさぞ苦笑していることでしょう。

笑いは、おはらい

福の神は陽気がお好き

ではこの辺で、「アカシャエネルギーとは何か?」というお話をしたいところなんですが、
それはもう少しあとにして、雑談を続けます。

かしこまって成功法なんかに取り組む前に、ふだんからできる心構えがあるんです。
けっこう、それが遠回りのようで近道だったりします。
昔から「笑う門には福来る」といいますが、あれは本当です。
こじつけていえば、アカシャエネルギーは、陽気な波動に感応して邪気を払い、
福を招く、といったところでしょうか。招福万来。
福の神は陰気を嫌います。
陰気が好きなのは貧乏神です。
これが仮に真理ではないとしても、湿気の好きなカビやダンゴムシならともかく、
ジメジメと恨んで泣いて、愚痴をいって暮らすより、明るく笑って暮らすほうがいいじゃないですか。
今回はその笑いの効能についてのお話です。

どっとはらい

「どっとはらい」という言葉があります。
物語の最後に「おしまい」とか「めでたしめでたし」といいますが、あの東北版です。
どっとはらいのほかにも、秋田では「とっぴんぱらり」があります。
地方によって、「とっぴんぱらりのぷぅ」、「とっぴんぱらりすったごだっごのぴい」、
「とっぴんぱらりさんしょの実」などとバリエーションがあるようです。

「すったごだっごのぴい」(笑)

8年前の某局に、『どんど晴れ』なんていう朝の連ドラがありました。
これは遠野地方の、「めでたし、めでたし」ですね。
本当にあったという怪談話を聞かされて、身も凍っていたあとで、最後にこんなおどけた
文句があったら救われます。
「すったごだっごのぴい」(笑)
まあ、いまでいえば、最後に「な~んちゃって」とでもいうようなものでしょうか。
ずいぶん前、「すったもんだがありました」なんて、CMで語っていた女優がいました。
さっき、『ヨルタモリ』で見ましたけど(ゲストの甲本ヒロトのブルースハープが素晴らしかった)。
「すったもんだがありましたが、そんなことはもう、すったごだっごのぴい」なんていう
心境だったんでしょうね。あのときのりえさんは。

笑いは空気を緩ませる

それにしても怪談話というのは、真っ昼間にしてもあまり怖くはありません。
さんさんと陽が降り注いでいるビーチなんかに霊なんていそうになくても、
深夜ともなれば、そこら中にいても不思議ではない気がするものです。
夜は怖い。

昼間には、作り話だろうと茶化して聞けても、それが深夜に聞けば、なんだか空気が
キシキシと音をたてて、目に見えない影が背後に迫ってくるような、いやぁな気配が
迫るのを感じてしまいます。

そういえば以前、深夜に鈴木光司の『リング』を読んでいて、
「うえぇ怖ぇ…」と背中がゾクゾクしてきて、なかなか面白かったんですけど、
途中で本を閉じてしまったことがあります。
夜は怖い。
そんな怪談話でも、ヒシヒシと空気が凍ってきたときに、そこで何かの拍子に誰かが
笑ったりすると、一気に場の空気の緊張が解けます。
笑いは、そんな凍えた空気をご破算にする効果があります。
いや…、大口開けて笑っていればいいのですが、体育座りで、抱えている両膝の間に
顔を埋めて、背中だけヒクヒクと動かしながら、長く笑いを引きずる髪の毛の長い女子が
いたりしたら、ちょっとそれもまた怖いですけどね。

取っ払う

山笑う、とは春の季語ですが、TVの業界用語にも、「わらう」があります。
ものをどかすとか片付けることをいうそうです。
ディレクターがADなんかに、「ちょっと、それわらって」と。
語源は不明ですが、「取っ払う」からきているという説があります。
「笑う」は、「取っ払う」です。

笑いも、笑いながら手を叩く(拍手)のも、これはお祓(はら)いではないかと思うわけです。
怪しい霊気を取っ払い、追い払うのです。
そういう力が笑いにはある。
笑いは、お祓いです。

パンドラの箱を開けたとき、あらゆる災厄が出てきたあとで、最後に「エルビス」だけが
残っていたという話があります。エルビスは、希望というのが定説になっていますが、
予兆や期待とも訳されます。そのエルビスが、「笑い」であってもいいと思うのです。

アダムとイブが楽園から追放されたときも、アダムはきっと笑いを持っていた。
手にマメを作って畑を耕しながら、それでもアダムはイブに、神さまのモノマネなんか
して笑わせていたのではないか。
「命の木の実を食べただと! まったくお前たちは、あれほど食うなといったのに!」
なんて、激昂する神さまのモノマネをしてみせるアダムに、イブは笑いながら、
「オー、マイ、ガー」
といったとかいわなかったとか。

笑いは権威の敵

笑いは、偽物を暴く常識のセンサーでもあるんですね。
笑いは、この世に生きる人間がみな持つ、オールラウンドのお守りです。
もったいぶった権威をこき下ろすのも笑いの破壊力です。

ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を原作にした同名の映画がありました。
謎を解決する修道士役のショーン・コネリーが相変わらず渋かったです。
舞台となった修道院では、笑いがご法度になっています。
やはり、神の権威を傘に着て、庶民を跪かせねばならない教皇以下の神父らにとって、
笑いは神をはじめ、その厳粛な権威をコケにする破壊力を持ちかねないということなのでしょう。

アリストテレスの笑いを肯定している本が、悪魔の書並の扱いで、修道院の奥深くに
秘蔵されているのですが、ショーン・コネリーが、その迷宮を探しまわって発掘するという話でした。
当時二十歳ぐらいの女の子と見にいったのですが、貧しい少女が若い修道士にまたがる
動物のような激しいsexシーンに、気まずくなった記憶があります。

庶民は権威を笑います。
もったいぶったものが、ちょっとしくじったりすると笑うのは人情です。
校長先生がけつまずいてコケそうになると、小学生でも笑います。

森公美子の霊体験

神を笑うくらいですから、人を怖がらせたい悪霊にとっても、笑いは敵でしょう。

芸能人というのは、霊感の強い人が多いようです。
まあ、そういう勘に鋭い人が、人気商売の芸能の世界へ入るともいえるでしょう。
スターというのは、何らかの色艶や婀娜(あだ)、妖しさを持っているもの。
舞台でオーラがあるというのは、何か過去の芸能関係の霊に憑かれているように思えなく
もありません。

オペラ歌手の森公美子は、霊体験をよくTVで語っています。
その一つに、急死した同郷の友人が、亡くなって日も浅いうちに出てきたという話があります。
なんとその友人は、霊となってこの世に現れるのは5つほど条件があるというのです。
まずは意志が強いこと。霊体となって現れるには、相当な集中力が必要なのだとか。
次に静電気がある場所が現れやすく、蛍光灯の下は好条件だとのこと。あとの条件は忘れました。
森さんが友人にお茶を飲むかと聞くと、東北弁で友人はこう答えたそうです。
「幽霊だからお茶飲まねぇ」

笑って手を叩けば柏手(かしわで)になる

独りでできるお祓いは、何より笑うことです。大声で笑うこと。
しかし、落ち込んで鬱々としているようなときには、笑うことさえできなくなります。
そんなときは、悪いものに気が同調して、邪鬼か何かに憑かれているのかもしれません。
それこそ貧乏神です。
笑えないなら、ちょっと立ち上がって、パンパンと、柏手を打つことです。
それができたら、明石家さんまのように、「こりゃええわ!」と手を叩いて笑ってみること。
それだけで、気のチャンネルが変わります。
邪気よ去れ。悪霊退散。
アホの坂田のマネをしろとはいいません、さんまぐらいならできるでしょう。
陽気のアカシャエネルギーが感応します。アカシャと握手ですね。

さてさて、話が長くなりました。では、このへんで。

とっぴんぱらりのぷぅ。

断捨離から「アカシャ離」へ

修行?

人がこの世に生まれてくる目的は何か?
この本質的な問いに、スピリチュアルな世界観では、修行だというのが多くの見解でしょう。
ん~、この世は修行なのか?
「♪人生楽ありゃ苦もあるさ~」というように、楽なばかりじゃ修行にならない。
だから、この世には必ず波風、ハードルがあるんだと。
「玉磨かざれば光なし」ってわけですね。

まさにこの玉こそ魂。
原石の魂をゴシゴシ磨いて、光り輝かせるために、みずから地上に降りてくるんだと。
三次元のこの物質界は、粗い目のヤスリのようなもので、そのなかで魂は揉まれて
練磨されていくんだとか。
しかも、それは一回きりではなく、輪廻転生を繰り返して、魂のグレードを高めていくといいます。
だから、人生には必ずついてくる辛苦も、練磨のためのガマンのしどころなんだと思えば、
忍耐の足しになるでしょう。

 

生きているだけで素晴らしい?

まあ、もちろん、ただこの世に生きていることだけで素晴らしいことなんだという見方もあります。
この世に生を受けただけで奇跡ではないか、自然を眺め、星空を眺め、旬の食を味わい、
人情の機微に触れ、家族を愛して平々凡々と年を重ねていく。ありがたやありがたや。
みな、命あってこその物種だと。悉皆成仏、極楽極楽――。

しかし、日々の事件や事故で、人の命が簡単に抹殺されたり、あるいは長い虐待の末に
惨殺されたりするような惨劇や、若くして難病で苦しむ姿を見聞きするたびに、
その考えは揺らぎます。
だいたい、生きているだけで素晴らし、ありがたい、なんていうのは、それはそれで究極の
プラス思考のようであり、侘び寂びの枯れた味わいもあるのですが、どうしてそんなふうに
断定できるのか不思議です。
比較するならわかるのですが。
たとえば、「おれも一回死んだけど、やっぱりねぇ、あの世より、こっちのほうがいいねぇ。
人間、肉体もってなんぼのもんさ」なんて、しみじみといわれでもしたら。
でも、フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』に、「♪天国よいとこ一度はおいで~
酒はうまいしねえちゃんはきれいだ」なんてありましたが。

 

この世は倒錯した夢である

さて、修行というのはどうでしょう?
やはりそれも、人はみな天と地を往来しているという、その魂の記憶がないからわからない。
前回、バシャールの話題をしました。
ちょっと引用します。

地球人は宇宙のなかでも特別、あれこれと自分たちに制約を課すのが好きな生き物
だということで、宇宙人のあいだで「『制限の帝王』と呼ばれている」という話があって、
大いに笑ったものです。
たしかにそうでしょう。
筋肉を強化するための養成ギブスを四六時中装着しているうちに、筋肉強化の本来の
目的を忘れて、緊縛される快感に目覚めてしまったようなものです。
まあ、本当は倒錯のヘンタイ、とでもいいたかったのかもしれませんが。

 

そう、人間はどうも倒錯しちゃっているんですね。
ただ、人間は目的のための細々とした作業も、その作業自体を楽しめるような性向があります。
大根の皮むき何年とかいう料理人の下積みでも、その皮むき自体を楽しんでしまう。
いいか悪いかは別として。それは宇宙広しといえども、人間だけの特技かもしれません。

般若心経にこういう言葉があります。
【遠離一切顛倒夢想】
誤った夢想から離脱しろ。そういうのです。
――この世は、けっして実在ではない。それを本物だと錯覚して人間は生きている。
それが大いなる迷いであり、無知の根源である。
とにかく、その錯覚妄想から抜けださなければ始まらないのだ、と。

というわけで、この3Dの現実世界はただの夢想であって、この錯誤から離脱しなくちゃいけません。
この説には私も賛成です。
ただし、賛成といっても、この経典の作者ほど、シャカリキな現実否定派ではありません。

 

倒錯もまた楽しからずや

物質的、肉体的な快楽は、快楽として楽しんでもいいのです。
たとえ倒錯でも、それを楽しんでいるという自覚があればそれでいい。
SMなんかの性倒錯も、当事者どうしが楽しんでいるのならそれでいい。
でもそこに、我を忘れて、どっぷりとのめり込んじゃダメなんですね。
それが落とし穴になります。

たえず、これはシミュレーションゲームなんだと自覚して、そのゲームに参加している自分を
俯瞰して眺めていなければいけません。
そうそう、私はこの世を一種の障害物競走、シミュレーションゲームだと思っているんです。
そう思えば気が楽です。

ペンギンが水中から陸へあがるとき、水中からビュン、と勢いよく飛び出して、直立したままストン、
と両足で着地します。
あの小気味のいいこと!
ざっとひとっ風呂浴びてきて、ヒョイと手ぬぐいを肩に、涼しげな顔で去っていく。そんな感じ。
いなせですね。
立つ鳥跡を濁さず、ならず「立つペンギン跡を濁さず」。
そんなふうに、この物質界のこの世を泳ぎ回って、微塵の後腐れも執着もなく、さっとまた帰天する。
そんなイメージがいいかと思っています。

で、「帰(けえ)ったぜ」と、天の女房に、涼しい顔で肩の手ぬぐいをヒョイ、と放り投げるんです。
まあ、そんな女房がいるのかどうかはわかりませんが。
あくまでこれは個人的な見解ですけどね。

 

この世は飴細工と知ることが善

この世はけっして強固で、永遠不変の実在ではないんですね。
まして、物質的な財をなすために、汲々とする場でもないんです。
価値があるのは、この世が「一切顛倒夢想」のスクリーンであって、そのスクリーンのなかで精いっぱい
自作自演して、適度に汗をかき、肩に手ぬぐいをヒョイとかけて出てくることなのではないか、
そう思います。

大事なのは、成功するかどうか、願望を達成するかどうかではなく、この世はやわらかい飴細工なんだと
知って、魂を遊ばせることです。

「え? ココは成功法を教えるブログじゃなかったの?」
とツッコミが入りそうですが、あくまでそれは究極の話。
ゲームとして楽しむ俯瞰した意識があるなら、いくらでも願望を達成して、物質界の帝王になってもいいでしょう。
魂がそれで自由に遊べるなら。

その助けとなるのが、アカシャエネルギーの活用なわけです。

 

この世を実在と思えば悪

悪行が悪いのは、自分だけの利益を求めて、人を傷つけたり、足を引っ張ったりすること自体ではなく、
あくまでそのスクリーンを実在だと思い込んでしまっていることにあるのです。
それが魂の自由度を奪います。

同じく、善行が善いのは、人のためになる行いそれ自体ではなく、自分を客観的に眺めている目があり、
この世がゲームだということに気づいているところにあります。
そこにおいて、善いのです。

この世は、それぞれの潜在意識の共同幻想で成り立っています。
共通したスクリーンで、それぞれの夢を投射し、張り合っています。
おれだけがうまくいけばいい、という利己的な考えは、その共同幻想のスクリーンのなかで、
やわらかい組織のなかにできたシコリのようなものなんでしょう。
それがスクリーンを歪めてしまう。だから悪いのです。

 

断捨離から「アカシャ離」へ

近頃は「断捨離」というものがはやっておりまして、余計なものは、愛着があってもどんどん捨てなさい、
そうすれば身も心もスッキリして自由になります、というわけです。
賛成ですね。それも一つの成功法。
出せば入ってくる、というのは引き寄せの法則でもあります。

豊かさは貯めこむことではなく、流通させることなんです。
貯金額ではなく、キャッシュフロー。動かせるお金がたくさんあることです。

さらに、モノを捨てるだけではなく、わが「アカシャアーツ」では、潜在意識から魂のアカまでの断捨離
(クリーニング)をカバーします。
魂のアカがよく落ちる潜在…、じゃなくて洗剤があるんです。

だからそれを「垢捨(あかしゃ)エネルギー」というんですね。

なーんて、ちょっとつまらないダジャレでオチをつけてみました。

幸運の女神に好かれるには

イメージ

まずこの世がやわらかいものだと思うこと

幸運を招き、成功するにはどうしたらいいか?
答えはとても簡単。
それは、世界は自分が見る夢で、自分の想い通りにシナリオが変えられると思うことなんです。
そう思い込み、強く確信すること。

地球上の物質はすべて地上に向かって落ちます。それが当たり前だと思っているのと同じように、
この世は自分の想い通りに演出できるスクリーンなんだと、ごく自然に思えるようになること。

マーフィーなんかの成功法を、ちょっとでもかじった人ならおわかりですね。
それが基本法則です。基本法則であり、またそれが奥義でもあります。

どうですか? 簡単でしょう?
この世は粘土細工の箱庭で、あなたのビジョンと指先で、潰したり引っ張ったりして、
どんなふうにでも変えられる。
そう、この世はあなたの演出を待っている夢のステージなんです。

とはいうものの

そうはいっても、どうしようもなく固く揺るぎないのがこの世の現実ではありますね。
じっさい、ビルの屋上から落っこちても、夢の中ではけっして死なないし、
それどころかスーパーマンのように空中を飛び回れるのに、現実の地面はとても固く、
必ず死んでしまいます。

人はそれをよく知っています。だからこそ、階段を踏み外さないように、
車にはねられないように注意して歩いています。
こんなのは当たり前すぎて、誰も疑いはしません。

物質界のこの世に生まれてきた以上、少なくとも肉体は物質的な法則に支配されています。
というか、そういう物質的ルールの制約のもとに、私たちは生まれてきたわけです。

私たちの意識も、生まれてこの方、この世の物質的な法則がすっかり刷り込まれてしまっていて、
それが真理だと頭から思い込んでしまっています。

赤ん坊のときから、転べばケガをし、お湯に触ればやけどをし、やたらとモノを口にすれば
命取りになることを、時には引っぱたかれて教えられ、この世の動かしがたい物理法則を仕込まれます。
それを洗脳ともいいます。

大人になってから、成功法なんかを学んだりして、なーんだ、この世はそんな固い世界じゃないんだ、
自由に操れるスクリーンなんだと思い直そうとしても、なかなかそれが難しい。
簡単だけど、難しい。
それが成功法の落とし穴です。

どうしても常識や先入観がジャマをして、無意識レベルまで確信が行き渡らないのです。
ノラネコの母親に、人間は危険だと教えられて育った子ネコが、優しい人間にもシャーシャーといって
牙をむき、なかなか慣れないのと一緒です。

だから、心の持ち方しだいなんていう、そんな単純な成功法は無意味だと捨てられる。
「成功法で成功した人を見たことがない」という皮肉もいわれることになるんです。

宇宙と深層意識は深い仲

私たちがいま生きているこの世――、つまりこの3Dのスクリーンは、無意識(潜在意識)が映しだす
ビジョンなのです。
外宇宙の虚空(アカシャ)は、内宇宙の深い潜在意識に通じています。
え? 証拠を見せろ?
そんなものありません。それがヒョイと見せられくらいなら、教祖になってお布施をたんまりいただいています。
証拠はない。でも、そう信じたほうが得なのです。
少なくとも、成功する確率はずっと高くなります。
自分に都合のいい、不思議な偶然がよくやってくるようになるでしょう。
いわゆる、引き寄せですね。

潜在意識は、学習のたまものです。
梅干しを思い出すと口の中が酸っぱくなるのと同じく、条件反射で反応します。
だから、ビルから落ちれば、潜在意識は自動的に死を確信してしまいます。
で、じっさい、そのように、潜在意識が確信したシナリオ通りに死が訪れます。
そういう常識に、意識がすっかり染まっているからです。

では、もはや刷り込まれてしまった潜在意識を矯正することはできないのか?
いいえ、子ネコが時間をかけて優しく接していれば、だんだん心がほぐれてなついてくるように、
常識で頭がかたくなった潜在意識も、やがてほぐれてきます。

ふだんの意識(顕在意識)に潜在意識はただ従うだけ

潜在意識は、「顕在意識」の手綱に従う馬だということはよくいわれています。
潜在意識の上に乗っかって手綱を操っているのが、いまこうして考えている「顕在意識」なのです。
意思や意図を生み出す、まさに自分の意識(こころ)です。
無意識を制御するのは、結局はふだんの自分自身だとは、当たり前といえば当たり前なんですが、
よくできた話です。

結局、自分でしっかり心の奥に命じれば、そうなるというのですから。
あえて高尚な考えをもたなくてもいいし、自分の個人的な趣味や欲望を捨てなければならない
ということでもない。
ふだんの意識で、しっかり心に決めさえすれば、そのシナリオ通りに無意識の馬は走りだし、
ただの夢ならず、想い通りに現実を闊歩できるというわけです。

スプーン曲げでもそうです。
鉄は固いと潜在意識まで思い込んでいるから、なかなか曲がらないんです。
しかし、針金のやわらかさを思い描いて、指先でクニャクニャと曲がるその感覚を広げていって、
潜在意識まで持っていけば、その通り、硬い鉄も曲がってしまいます。

虚空のアカシャエネルギーは潜在意識にも満ちている

宇宙には、素粒子を駆って物質化する超越的なエネルギーに満ちています。
それがアカシャエネルギーです。
アカシャエネルギーは、意識に感応します。
宇宙空間に満ちている潜在エネルギーは、潜在意識を貫いているエネルギーでもあるのです。
地球のこの世も、アカシャエネルギーでどのようにも変えられる、粘土細工の箱庭です。
そう強く心に思い描いてこの世を俯瞰すれば、この世は飴細工のようにグニャグニャと
やわらかく変化していきます。

まずは、物質的な物理法則である因果律が幻想だということを知ることです。
いや、知らなくても、そう思うだけでもいいのです。
論理や理屈のとりこになることはないのです。
科学は、人がより合理的に(うまく)生活していくことに役立つためのたんなる知恵です。
科学は、真実を意味するものではありません。
たんに一定の条件で、こうすればこんな結果になるという筋道を明かしているにすぎないのです。
条件が変われば、因果律も変わります。

0-09

地球人は「制限の帝王」

80年代の終わり頃、チャネリングが日本でもブームになりました。
ダリル・アンカが「口寄せ」(!)するバシャールという宇宙人は、とても明快で
実にクレバーなキャラクターでした。
それが本当の宇宙人であるかどうかはともかく、チャネラーが、ニューエイジの陽気なイタコと
いわれたように、ダリル・アンカの語り――アンカ節は大いに楽しませてもらいました。

そのダリル・アンカの語りというか、バシャールの言葉は本にもなっています。
その本のなかに、地球人は宇宙のなかでも特別、あれこれと自分たちに制約を課すのが好きな
生き物だということで、宇宙人のあいだで「『制限の帝王』と呼ばれている」という話があって、
大いに笑ったものです。
たしかにそうでしょう。筋肉を強化するための養成ギブスを四六時中装着しているうちに、
筋肉強化の本来の目的を忘れて、緊縛される快感に目覚めてしまったようなものです。
まあ、本当は倒錯のヘンタイ、とでもいいたかったのかもしれませんが。

それにしても、社会的な動物としての人間は、いろんな制限を課して生きています。
法律しかり、宗教しかり。倫理、道徳、因習、しきたり。それらの常識という服で身をかためて、
私たちは、心を地上にへばりつかせて生きています。
社会生活を営むうえでのルールはいいとしても、本来、肉体の制約から離れて
自由にイマジネーションを飛翔させていいはずの自由な精神(こころ)まで、
みずからがんじがらめに縛って、肉体という拘束着のなかに埋もれているというわけです。

もっとゆるく

物事はそう簡単に都合よく動かない。
世間は、自分の都合よく動くはずがない。
そう簡単に成功なんかしない――、
なんていうことを、人間はまるで宗教のように信じ込んでいるとでも、バシャールはいいたいのでしょう。

人間は、もう少し世界をゆるいものと見直したほうがいいのです。
それが成功法の鉄則です。
イエスだっていっているじゃないですか。

「心のなかで疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と。

イエスはすでに、成功法のエッセンス(勘所)を明かしていたのです。

――ということで、塾とはいいながら、このブログはアカシャバーのマスターの雑談がメインです。
まだ暖機運転ですので、あちこち脱線しながら、しばらくはゆるゆると、ゆる~くいきたいと思います。

『バシャール』ダリル・アンカ

常識に照らし、常識を疑い、常識を超える

初めての投稿です。

なんていうと、なんだか「初めてのお使い」みたいで緊張しますね。

以前、「不思議ラブ」というブログをやっておりまして、わずか12回で更新が止まってしまったんですが、
そのサブタイトルが、「常識に照らし、常識を疑い、常識を超える」でした。

このブログも、その「常識に照らし、常識を疑い、常識を超える」をモットーにしましょう。

まず初めての投稿は、そのブログから、このモットーについての話題に触れた投稿がありますので、
それをちょっと引用して始めることにします。

 

【驚きの心】

この世は、常識がなくてはやっていけません。
また逆に、何事も常識ばかりでは進化はありません。
この世は、そんな2つの法則に支配されているのです。

天体の運行など、未来の軌道が読めるニュートン力学と、
一瞬先も読めない量子力学が混在しているのがこの世です。

サトリは、日常を超えた天から降ってきた知恵だという一方、
日常のなかで淡々と暮らしていることにこそ、サトリはあるともいわれます。

いったい、どっち!?

面白いのは、人間は日常も非日常も楽しめるものだということ。
ルーチンワークの慣れも、スリル満点の冒険も楽しめます。
安穏もスリルも。
酸いも甘いも。
愛妻がありながら不倫(アバンチュール)だって。

ただまあ、完全に情報(刺激)が入ってこなければ、脳は生きてはいけない。
ある程度のスリルは、脳への報酬です。
いくら負けがこんでも、バクチがやめられないのは、そのリスクがドーパミンなんかの
快感物質を出すからでしょう。

センス・オブ・ワンダー(驚き・不思議な感動)がなければ、やっていけないのが人間です。
驚きのあるところに、「なぜ?」(Why?)が生まれます。

失恋もそのひとつ。
彼女に去られたとき、「どうしてなんだ!?…」と頭を抱えてさまよう街角の孤独のなかで、
哲学は生まれます。
求めても得られない人との別れに、人はこの世の不条理に気付きます。

「ワンダー(どうして?)」といえば、60年代の名曲、【悲しき街角】ですね。

それでは、ここでちょっとコーヒーブレイク。

 

デル・シャノン『悲しき街角』

 

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「常識に照らし、常識を疑い、常識を超える」

「♫ I wonder~」

では、デル・シャノンの懐かしの裏声で、甘酸っぱい気持ちを刺激されたあとで、
この話をもう少し噛み砕いてみます。

あらゆるものごとを、物質的な世界観・合理主義でまずは検証する。

つまり、古典力学のモノサシで、迷信や洗脳による妄想やインチキではないかと疑ってみる。
うまい話には裏があるものです。

こんどは逆に、量子力学的なモノサシで、実在だと思っている世界を、
たんに実在だと思っているだけではないかと疑ってみる。

奇跡もイノベーションも、常識(既成観念)のなかにはないわけです。
新たな発明は、常識をブレイクスルーしたところにやってきます。

私は、宇宙人の乗り物としてのUFOもあると思っていますし、オカルチックな怪奇現象もあると思っています。
人間は死んでも終わりじゃないし、魂としての存在があるとも思っています。

目に見える世界がすべてではないと思っているわけです。
物質の法則を超えた不思議な世界がなければ、なんてこの世は味気ないものか。

しかし、世の中には眉唾も多いですし、インチキ宗教もはびこっています。
オカルト現象や、奇跡現象もみなマジックでできるというのもまた事実です。

医者に見放された末期がんが治ったのも、頼りにした治療師や宗教家の奇跡の力ではなく、案外、
抗がん剤を止めて免疫力がアップしたせいなのかもしれません。
そのような理性的な目も持たなければ、だまされて、へたをすると身ぐるみはがされてしまうのが
世知辛いこの世です。

変わった現象に素直に驚くセンシティブな感性と、簡単にだまされない注意深い理性の目。
感性と理性、そういう2つの目を持つことが、とても大事です。

まずは、自戒をこめて。