先祖供養の効能はホントにあるのか?

供養は成功法である

世の成功者に、一番手っ取り早い成功法は何か? と尋ねて、多く返ってくる
答えに先祖供養があります。
先祖供養?
成功法に関心のある人でも、霊的存在を否定している人はまず拒絶反応を起こす
でしょう。

それはわかります。とはいえ、成功者や大手企業のトップが成功の秘訣は何かと
尋ねられると、ほとんどの人が自分は運がよかったと答え、またそのなかの多く
が先祖供養を欠かさないと語ります。
たしかに、たとえば代々続いている老舗などでは、まず先祖供養は、伝統の祭り
のように、どこでもごく当然のごとく継承されていることでしょう。
また、強運のたまもののような芸能人なども伝統的に神仏を畏敬し、験(げん)を
担いだりする体質ですから、目に見えない先祖のお御霊(みたま)に感謝し、供養を
心がけているという人の割合は多いでしょう。

ただし、これだけでは、成功と先祖供養の因果関係が明らかになったわけでは
ありません。先祖供養をやっていなくても、成功している人はたくさんいますから。
つまり、先祖供養が成功を生んでいるというよりは、成功している人は、もともと
先祖供養を重んじる背景を持つ確率が高いということになります。
逆に、貧困層は、先祖供養などやっている余裕がないという確率が高いはず。
東大生は、親が高収入の確率が高いというのは統計的な事実ですが、
かといって、けっして貧困家庭から東大生が出ないわけではありません。
統計の取り方をきちんとしないと、科学的なグラフは描けませんね。

供養効果の事実はある

しかしながら、何事もうまくゆかず、八方塞がりなときに、墓参りをしてから
急に風向きが変わって、窮地が救われたという話がけっこうあるのです。
これはすべて偶然なのでしょうか。

先祖供養をすることで救われる、なんらかの見返りがある、という考えは、
一般的にご先祖様へ祈念することで、その方々からサポートをしてもらえる
という考えです。
この世の図式でいえば、政治家に陳情するというようなものでしょうか。
あの世の霊的ネットワークに働きかけて、この世に介入してもらうというわけです。

無縁仏を供養して大成功した

実をいうと、見返りのある供養というのは、あの世の先祖(血筋)や縁者だけが
対象になるのではありません。霊的存在なら何でもいいのです。

私の友人に、ある食品業界の三代目で、難しい開発を成功させた男がいます。
その業界で初めて、まず無理だといわれていた製法を独自に開発し、一般消費者
にまで大きなブームを引き起こしたのです。
日経の一面を飾り、TVだけで30回は出たそうです。私も朝の経済ニュースを
眺めていて、突然彼が出てきて、飲んでいたコーヒーを噴いたことがあります。
彼がその開発に難儀していた頃、たまたまある霊能者と縁があって、工場の敷地の
外れに無縁仏の遺骨が沢山埋まっているから、それを供養してあげてください、
そうすれば大きな功徳になりますよ、といわれ、その言葉どおり実行したら、
その後まもなく開発が成功し、大成果を収めたというのです。

開発の機が熟していた時期と、たまたま重なっただけなのかもしれませんが、
彼自身霊感のある人間なので、あの開発が成功して製品が売れまくったのも
そのおかげ、すなわち霊的功徳によるものだといまだに信じています。
「情けは人のためならず」をもじれば――、
「供養は霊のためならず、おのれの福運のためにあり」ということになりますね。

目に見えないものへの供養こそ見返りは大きい

供養というのは、死者の冥福を祈って法会を営むことをいいます。
ふつう、死者が対象です(追善供養)。
この世界の生きている人、とくに有力者に貢物をすれば、何かと利便をはかって
もらえる機会は増えるでしょう。現実世界での供物(貢物)は、賄賂が端的な例で
あるように、現実的な効果があります。

それでは、死者を供養して、この現実世界の自分にどうしてよい影響を生む
ことになるのか? です。
まあ、霊的世界を迷信だという人には、とても理解できない話でしょうが。

命(イノチ)は、目に見える存在だけではないんですね。
どんな形態でも、他のイノチを利すれば、自分の利となって返ってくるという
のが、この世とあの世の宇宙の法則なんです。「情けは人のためならず、回り
まわって自分の徳(得)となる」です。
それにまた、その対象が小さく貧しいものほど、陰徳であればあるほど、逆に
見返りは大きいのです。貧しいものにこそ神は宿る、と思って損はありません。

もし無縁仏を供養して、そのおみたまが救われたとするなら、その恩に報いる
ために応援してくれるということもあるでしょうし、そんなふうに救われた霊からの
直接の応援が得られないとしても、「情けは人のためならず」の法則どおり、
福徳を得られるからです。もちろん、福徳は福運になります。
先祖には、浮かばれないおみたま(イノチ)がたくさんいます。
この世で捧げる灯明は、あの世の道を照らす光にもなるのです。
利己の近道は利他なんです。
利己と利他は、メビウスの輪のようにつながっています。

霊的加護を抜きにして供養の効能を考える

いや、そんな話は信じられないというなら、霊的な存在を抜きにして考えてみます。
つまり、もし供養する霊的対象からの見返りも、他人(霊的存在を含めて)を救えば、
自分が救われるという宇宙の法則もないのだとしたら、それどころか霊すらないのだ
というなら、ほかに何がどう作用しているのか? ということを考えます。
たとえば墓参りには、霊的な話を抜きにして、それが幸運をもたらすどんな働きが
あるのか、です。

精神集中は実に難しい

前に、成功法の極意は祈りだ、という話をしました。
レンズが太陽光を集めて紙を燃やすように、意識を集中し、祈りの念が極度に
収斂されたとき、その祈りは実現化されるというのが成功法の極意です。
――と簡単にいっても、その精神集中が難しかったのでした。

だいたい、人の意識というものは、同じことをずっと考えることはできない仕組み
になっています。ちょっと試してみればわかります。
たとえば、花のことを考えろといわれて、心に任意の花を思い浮かべても、
3分もすれば別のことを考えていることに気づくでしょう。チータのダッシュ
みたいなもので、持続力に欠けるのです。

先祖供養は祈りの集中化をはかるカタチ(舞台)である

その精神集中を助けるのが、身口意のカタだという話をしました。
心身をカタにはめれば、精神も集中しやすくなります。
雑然とした日常生活の家のなかで祈るより、ステンドグラスの荘厳な殿堂や
清浄な境内の神殿で祈るほうが、舞台効果で自己催眠をかけやすくなるものです。
瞑想をするとき、ホトケを念じよ、といわれても抽象的なホトケを心に描くのは
困難です。だから仏像や仏画があるのです。具体的な像を目に焼き付ければ祈念
しやすくなります。

墓参りというのは、一種のイベントであって、その前日から意識がそちらへ
向かっています。
何時に電車に乗って、どこそこでお供えを買って、時間をかけて歩いて、墓石を
浄め、花や線香を立て、そこでやっと墓前に佇んで、おもむろに手を合わせます。
手を合わせる前の一連の行動から祈りは始まっているのです。
遠い先祖なら顔も浮かばないでしょうが、身近だったお祖父ちゃん、お祖母ちゃん
なら顔を思い浮かべます。祈念はより具体的になり、そのぶん集中されます。

花や香や水(閼伽)を捧げるのが大事なのではなく、それらのモノは、精神を
集中させるための小道具なのです。向き合う墓石も、供物を買うための労働も。
面倒な労働も精神を集中させるための小道具だと考えればいいのです。
何もない空へ向かって祈るより、地平線から上ってくる太陽へ向かうほうが
祈りやすいものです。

極度に集中された念は物質化される

切羽詰まった祈りほど、念は集中されます。
たとえば、車にはねられても、かすり傷ひとつおわないで助かったという例が多々
あります。
「危ない!」
と人が思ったとき、意識は凝縮されます。その凝縮された念が、瞬間的に自分の体を
コントロールしたか、あるいは瞬時に潜在意識の奥まで潜って、この世の3D世界を
操作したかです。

念を極限まで集中させたとき、たんにお願いするだけではなく、イエスの成功法の
極意の祈りをするのです。
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおり
になります――」
あの実践です。

神仏や先祖に向かって祈るカタチにはなっていますが、その力を頼りにする
のではなく、頼るのは自分の祈りの力なのであって、これはあくまで自力、
もはや他力ではありません。
その自力のパワーをより高めるための舞台装置が、供養のカタチなのです。
そう思えば、供養なんて、と思う人や、他力を嫌う人にとっても有効になります。
どうせ、この世で社会生活を営んでいくかぎり、そのような儀式は欠かせない
のですから。うまく利用しましょう。

形への愛

命をこめればアートになる

日曜の夜、なにげなくTVをつけたら、目が釘付けになってしまいました。
TBSの『情熱大陸』で、出演者のダンサーに目が離せなくなったのです。
途中からだったので、最初男だと思って見ていたら、女の子だったんですね。
失礼。

前回のブログは、形の力がテーマでした。
日本の伝統的な作法や立ち居振る舞い、仕草や身振りには美しさがありますが、
それが美しいのは、その形に「チ}が宿っているからだという話をしました。
そのいい例があったら映像で紹介したいと思って、茶道の茶筅の手捌き
などの動画を探そうかと思ったのですが、労を惜しんでやめたのです。

情熱大陸のダンサーは、菅原千春さんでした。もう世界的に活躍していて、
その世界では有名だったということで、改めて失礼。
目が釘付けになったのは、そのフォルムに力があったからです。
全身のフォルムばかりか、手先やつま先の細部まで。

「キレッキレ」だとか、アクロバティックというなら、このレベルはいくらでも
いるでしょう。
でも、彼女のダンスが目を引いたのは、それがアートだったからです。
彼女自身もまた、自分はアートをやりたいんだと語っていました。

たんに美しいだけではなく、そこに命が込められている、魂が宿っている
――それをアートと定義しましょう。
魂が宿る――、それは自分の魂が込められているだけではなく、その魂に
目に見えない宇宙の力が呼び込まれ、注ぎ込まれているような気がします。

これを神秘主義的にいえば、アートマン(魂)にブラフマン(宇宙)が感応
するということです。
つまり、ヨーガの原義ですね。
個(小宇宙)の躍動のなかに、普遍的な宇宙(大宇宙)のオーラを見る。
だからこそ、目が釘付けになるのです。

指に命を注いだら指一本だけでダンスになる

ダンスについて、彼女はこういっていました。
「指に命を注いだら、指一本だけでダンスになる。(ひとつの動作に)どれだけ
命を注ぐかでダンスになる」
この「命の注がれた」ダンスを、アートと彼女はいうのでしょう。

この回の『情熱大陸』は、ネットで見られます。
(ただし、7月5日(日)の22時45分まで。蛇足ですが、次回は高田純次。
高田純次はファンなので、ぜひ見たい)

彼女のダンスは、YouTubeにも沢山アップされていて、みなかなりの再生
回数になっています。
https://www.youtube.com/watch?v=0CXKClVW7lo
この動画のコメントにこんなのがありました。
dancing with heart is better than just a technical dancer
(拙訳)「心のこもったダンスって、たんなる技巧的なダンサーよりずっといいよね」

『情熱大陸』では、新作創作中のスタジオにカメラが入っていて、新しい曲をどう
解釈したらいいか、その振り付けに苦しむ姿が映しだされていました。
サビで「デザイアー」というシャウトが繰り返されるのですが、その叫びをどう
解釈していいのか、そこに悩んでいたのです。
そちなみに、その曲がカッコよかったので、全曲聴きたいと思って探したら、
Years&Yearsの『Desire』という曲でした(もう一千万回以上再生されてるんですね)
https://www.youtube.com/watch?v=6nJCF01b510

空手道のカタにこもる力

形の力といえば、同じパフォーマンスでも、まさに「カタ」の名そのもので、
演武のカタがあります。
以下に紹介するのは、宇佐美里香さんの空手道の「カタ」です。

この演武もまた感動モノです。日本女性、すごい。
この映像の紹介文にはこうあります。

映像は去年(2012年)の11月にフランスのパリで行われた、
第21回世界空手道選手権大会、女子個人「形の部」決勝の模様で、
見事優勝を果たした宇佐美里香さんの形が収められています

このコメントにこんな言葉がありました。
Indeed, performing a kata is not like performing a breakdance move.
It’s a form of meditation(後略)
(拙訳)「ホントにね、カタの演武って、ブレイクダンスの動きを演じるようなもんじゃ
ないんだよね。それは瞑想のカタチなんだよ」
このコメントをした人が菅原小春さんのダンスを見たらなんていうでしょうね。

ブルースの基本形は「おれの話を聞け」

『情熱大陸』が終わってから、『ヨルタモリ』にチャンネルを換えると、
糸井重里がゲストで、ちょうどブルースの話をやっていて、ブルースのカタ
というのは、結局みんな「俺の話を聞け」なんだと語っていました。
なるほどね。
「俺の話を聞け」というのは、いうまでもなくクレイジー・ケン・バンドを踏まえて
いるわけです。

そこで、急に宮沢りえがブルースをやろうということで、ギタリストが
ブルースコードを鳴らし、タモリもコンガを打ちます。
バーのママ、いつもモダンな和服のりえさんは、それに合わせてこんな歌を
うたいはじめます。歌詞は正確ではないですが、だいたいこんな感じ――。

♪男はみな着物姿の女がいいっていうけど、
パッチはいて、襦袢着て、帯しめて、どんだけ時間がかかるっていうの
それを簡単に男は解くの
解いてよ
解いて解いて解いて解いて
着物だけじゃなくて、あたしの心も
解いて解いて解いて解いて、
それができるのはあんただけ~♫

歌はへたでしたけど、もしこの詞がシナリオにはないアドリブだったとしたら、
これはすごい。アートではないとしても、これはこれで芸ですね。

形の力

江戸しぐさはなかった

「江戸しぐさ」というのは聞いたことがあると思います。
あれはでっち上げだったんですね。そんなものはなかったんです。
http://friday.kodansha.ne.jp/archives/37754/

「江戸しぐさ」についての本も出ていますし、去年から小学校の道徳の教科書
にも登場していたのですが、捏造だとわかって、来年からは削除されることが
決まったそうです。正直、私もだまされました。
私が「江戸しぐさ」という言葉を知ったのは、いつからだったか。
そんなに昔ではありません。せいぜい十数年ほど前ぐらいだったでしょうか。
子供の頃も、青年期にも聞いたことはなく、突然出てきた話で、ああそんな
粋な心意気があったのかと、さすがクールジャパン、なんて思ったものですが、
おっと、当時クールジャパンなんていう言葉はなかったですね。
あぶなく捏造するところでした。

「江戸しぐさ」といえば「傘かしげ」というくらい、傘かしげは有名になり
ましたが、私がいままで記憶に残っていたのも、せいぜいその傘かしげ
ひとつぐらい。
狭い路地にひしめく江戸っ子の、軋轢をさけるための生活の知恵、譲り合いの
心ということで、いまに通じる道徳マナーの教本のように語られていました。
でも、そんな伝統がなくたって、それってふだんからやっていることだよな…、
と、ちょっとは思った覚えがあります。
だいたい狭い歩道ですれ違うとき、どちらか、あるいは互いに傘を傾けなけ
れば通れません。と、何をことさら…、という思いがあったのは事実です。
いつの時代、どこの国でもそれは同じじゃないの、と。

いったいどんな思惑なんでしょう。たんなる日本びいきならいいのですが、
そんな「江戸しぐさ」は、文献には一切残っていないのです。
落語にもなかったし、口承でもありません。
では、「江戸しぐさ」は、どうしてこれまで人々の口にのぼらず、廃れて
しまったのか?
それは明治維新時、そのクールな文化を敵視した官軍によって、江戸っ子
たちが大虐殺され、生き残った者たちも各地へ散っていったからだという
ことになっています。
荒唐無稽ですね。初めて聞きましたわ。いったい、どうしてそんな稚拙な
偽物語まで作らなければならなかったのか。それが奇妙です。

陰謀だらけ

世の中は、それぞれの思惑によって、あったことがなかったことにされたり、
なかったことがあったことにされることが多々あります。陰謀だらけです。
国際問題の絡む歴史においては、こういうでっち上げはいくらでもあります。
スパイ大作戦のような策謀なんて、国家間では当たり前。
外交は、基本的に片手で握手で、片手で殴り合いですから、騙し合いです。

客観的な歴史事実(ファクト)だけは、ファクトとして確定してほしいもの
ですが、交通事故でさえ、それがもし警察関係者によるものだったら、現場
検証のデータさえ歪められてしまうことがたびたびあるのですから、人の
思惑を除いた客観的な歴史の検証は、なかなか難しいものがあります。
なにしろ、物理や化学のように再現できないので。
しかも、自分らに都合の悪いファクトが新たに発見されて、歴史が見直され
そうになると、「歴史修正主義」といって叩きます。便利な言葉です。
いや、新たな資料が出てきたら、書き換えられるのが歴史というものです。

美しいかたち

日本人の立ち居振る舞い、しぐさや作法で美しいと思うものは多々あります。
襖をいちいち座って開け閉めするその両手の動き。
茶筅の素早い手さばき。
懐紙を挟む唇…、なんて、これは美しいというより艶かしいか。
不合理で因習と区別がつかない部分もありますが、手順や所作など、
伝統的に継承されてきた形には、洗練された美がありますし、いささかの
スキもない力強さがあります。

スポーツのフォームは、体のバランスをうまく保ち、より高く、より速く、
より強くなるための合理的な形になっています。
それが武術となるとなおさらです。相手を制するために、命がけで練られ
てきた形なのですから。
華道、茶道、書道をはじめ、舞踊、能、歌舞伎、狂言などの伝統芸も、
みな形から習うところから始まります。

カタチというのは、カタに「チ」が入ったものだという説があります。
チというのは、血であり霊。霊はチと呼びます。力のチでもあります。
そういえば、チはほかにも、地、乳、知など、生きるうえでの大事なモノ
にあてられた言霊になっています。
模型の型(カタ)というのは、チが入っていないからこそ、ただの模造
なんでしょう。

何事においても、初心者の弟子たちに、指導者はよくカタが出来ていないと
叱ります。カタを身に付け、修練していくうちに、やがてそこにチが込められて
いくと、力の出るカタチになるわけですね。
その形を守ってさらに修練を重ねていくうちに、やがてその枠に収まらない
個性が現れてきて、形を破る時期がやってきます。新たな一門をなすわけです。

形を守り、形を破り、師から離れていく。
それを「守・破・離」といいます。
本ブログのモットー、「常識に照らし、常識を疑い、常識を超える」というのも
この「守・破・離」に拠っています。

本物はみな、独自の形をつくるものです。
そのためには、まずカタに霊(チ)が入っていなければいけません。
同じカタでも、力が肩に入っていれば、力は出ないみたいですけどね。

三次元の物質であるからには、モノはみな形があります。
道具を見ればわかるように、モノにはその機能にふさわしい形というものが
あります。

形に力が宿るのは、その形が空間の潜在エネルギーと共振するからです。
そこに私たちは美をみます。
美しいフォルムには「チ」が宿っているのです。
チ、すなわち、それもまたアカシャエネルギーです。
その意味で、チはまた「気」でもあります。

ギョッとしたかたち

最近、というか、前から気になっていることがあります。
お辞儀のなかで、両手をお腹で組み、両肘を張り出して頭を下げるポーズを
あちこちで見かけます。あれは一体いつから流行りだしたのでしょう?
昔から、デパートのエレベーターガールがやっていたような記憶がある
のですが。航空会社の客室乗務員もそうだったでしょうか。
どうも、何を根拠にしたのか、それが美しい作法だということで、
マナー教室などでデフォルトのお辞儀として教えられているそうです。

お辞儀(礼)というのは、両手を体側に沿って伸ばしたり、あるいは膝頭へ
すっとすべらせるように伸ばしたりするのが普通だったはず。
歌舞伎役者や能楽師などの紋付袴の人たちが、あのお腹で手を重ねる
お辞儀をする姿を想像すれば、ずいぶん違和感があるのがわかるでしょう。

先日も、近所のファミレス、某華屋与兵衛で、社員らしきウェイターに、
お腹で手を組み、肘を張り出したポーズでずいぶん慇懃(いんぎん)に
お辞儀をされて、ギョッとなったものです。
「お腹、だいじょうぶですか?」
と、思わず声をかけそうになりました。

さすがにこれは私だけではなく、気になっている人は多いようです。
そんなところに堂々と流れたこんなTVCMが、ちょっと前、ネットで話題に
なっていました。

さすがにこれはないでしょうねえ。
百歩譲って、これが礼だとしたら、謝罪の礼ではなくサービスの礼です。
「申しわけありませんでした。ではお詫びに、これからお肩を揉ませていただきます」
というお辞儀です。

同じ頃、アサヒ新聞でも、正しい礼の仕方として、肘を張り出したそんな妙な
ポーズをイラストで紹介していたのには驚きました。
いまネットを探してみたら、同じく疑問に思った人がブログにそのイラストを
掲載していました。
イラストは無断掲載ダメとのことで、アドレスを貼っておきます。
http://tukasagumi.exblog.jp/24357389/

これをきっかけにあれこれ調べてみたら、なんと某アサヒ新聞は一貫してこの
妙なお辞儀を推奨しているんですね。以前から確信的にやっていたようです。
http://www.asahi.com/job/syuukatu/2013/pose/gallery/20111215/#title5

古めかしい写真が載っていて、こういう雰囲気が嫌いな人には恐縮ですが、
このサイトが詳しいです。
http://blog.goo.ne.jp/chaos1024/c/f59caf897cdabe8b9b66ca39148c5241

必ずしも、伝統のすべてが無条件にいいとは思いませんし、実生活では簡略化
してアレンジしてもいいとは思います。しかし、どうもこの肘張りお辞儀は、
日本の伝統的な作法に対する挑戦であることは間違いないように思えます。

江戸しぐさならぬ、平成しぐさとでもいいましょうか。
これでは力の入らない、すなわち「チ」のないカタチであり、
アカシャエネルギーは流入しないでしょう。
日本人霊(チ)抜き計画、骨抜き謀略だとうのは、いささか肩に力の入った、
アタマにチが上った陰謀論にすぎるでしょうか。  了