お墓と成功法(2)

それでは、前回で紹介するつもりだった原稿(以前、ある雑誌のコラムに書いたもの)を紹介させて
いただきます。

お墓の好きな日本人

 あなたは霊魂を信じますか?

近頃、死んだ人間がこの世に舞い戻るという物語をよく見かける。ちょっと思い出してみても、
『鉄道員(ぽっぽや)』『秘密』『四日間の奇蹟』『いま、会いにゆきます』『黄泉がえり』など。
これらはみな小説であり、映画化もされている。一昔前には、『居酒屋ゆうれい』や『異人たちとの夏』
なんていう作品や、洋画では『ゴースト』や『シックスセンス』があった。
「魂や死後の世界を信じる」人の割合は、いまどのくらいだろう。心霊番組もよくあるので、
けっこうな割合になるのではないか。それでもまだ、死んだらそれまで、という現実派も半分はいる
だろう。大雑把だが。
死後の世界を信じていなくても、人は死んだらお墓に入って供養され、身近な者に死なれれば、
私たちは墓前で手を合わせる。年に一度は、先祖の墓参りもするだろう。
それにしても、「あの世」を信じていない者が葬儀や墓前で手を合わせるときには、一体何に何を
祈っているのか? 「冥福を祈る」というなら、冥界とはまさにあの世のことではないか。しかしまあ、
世間のしきたりで、祈るふりでもしておかなければ角もたつ。とかくにこの世は住みづらい。

 墓を作ったときサルはヒトとなった

「人間とは何か?」という定義が、昔からあれこれ試みられてきた。直立二足歩行をする、コトバ持つ、
道具を使う、火を使う、などなど。
そのなかに「墓を作る」という定義がある。人類が人類となったのは、まさに墓を作り出したときからだと
いうのである。たしかに、前足を合わせて合掌するイヌやネコはいても、墓を作る動物など人間以外に
心当たりはない。
チンパンジーは、死んだ乳飲み子に執着する話は知られている。死んだからといって、すぐに捨てる
べきモノになってしまうのではなく、干からびてミイラになっても手放さず、乳をやる仕草も止めない例が
観察されている。それでも一定の時が経てば、やがてモノとなって遺棄される。そんなに執着していても、
その遺体を土に埋めることは決してない。

 最初に墓を作ったのはネアンデルタール人

たんに穴を掘って埋めるというだけでは墓とは呼べない。イヌやネコだって、糞をすれば土をかける。
遺体を放置すれば嫌な腐臭が漂うし、動物に荒らされるので、たんに死体というモノとして処理して
いるだけかもしれないのだ。近くに川や洞窟がないから、仕方なく埋めるというわけ。
しかし、ネアンデルタール人が発見されたイラクのシャニダール洞窟では、遺体と一緒に花が埋め
られていたのだ。その献花が死者への供物であり、墓であることの証明になったのである。
ネアンデルタール人と共存していた現生人類のホモ・サピエンスも、同じく墓を作る種族だった。
時が経つにつれて、献花は、やがて死者がふだん使っていた道具や宝飾品などの副葬品となって
いった。
副葬品というのは、死んでからも、あの世で不自由なく暮らしてほしいという願いがこめられている。
死んだらそれで終わりになるのではなく、来世の「あの世」が待っている。つまり、肉体が滅んでも、
なくならない「霊魂」という存在が想定されているのだ。
科学から見たら、脳死で人格はすべて消滅する。あの世など迷信にすぎない。しかし、仮に迷信だと
しても、それは相当高度な精神がなければなるまい。イモを洗って食べるサルはいても、縁起(迷信)
をかつぐサルはいないだろう。
まさに霊長類。霊に長けた種が人類というわけだ。ということで、霊魂を意識するホモ・サピエンスと
ネアンデルタール人だけが人類の名に値する。墓を作らなければ、霊長類に分類される他のサル
たちは、本来、霊長類には値しないのだ(まあ、これは冗談で、霊長類の霊はたんに「優れた」という
意味。霊魂とは無関係)。

 墓を作らない民族(宗教)もある

同じ人類でも、墓を作らない民族もある。といっても、霊魂を信じていないわけではない。
例えば、輪廻転生の本家本元であるヒンドゥー教徒は、火葬にして灰を川に流したり地に撒いたり
する。
チベットには鳥葬があり、ニューギニアでは遺体を樹上に据え置く部族もある。棺にも入れないで、
そのまま遺体を地上に放置する風葬は世界各地にある。一見、あの世の観念のない死体遺棄の
ようにも思えるが、皆それぞれに来世の幸福を祈られて葬送されている。昔は日本にも風葬はけっこう
あった。
墓を作るにしても、死者への供養の仕方は様々である。アジアやアフリカの伝統的宗教では大体
墓参りが好きで、供物も捧げる。日本人も、なかなか熱心な墓参り信者だ。
ドラマを見ても、墓参りはよくあるシーンで、墓石に向かって語ったり、またそこで偶然関係者
同士が出食わしたりする(!)のが定番になっている。
家族が他界して間もなければよく足を運ぶだろうし、先祖の「供養」のために、彼岸や盆の墓参りは
欠かさない。日本人は無宗教といわれながら、「あの世」の熱心な信者である。
これに対して、クリスチャンは淡白だ。まず墓は礼拝の対象にはならない。捧げるのはせいぜい花
ぐらいで、供物は供えない。あの世のことはみな、神が仕切るという発想だろうか。イスラム教徒も同じ。
ただ聖者は、現世利益を与えてくれるということで、その霊廟は礼拝の対象となっている。

 死者への供養と死霊への恐れ

墓は、冥福の供養のためにあるだけではなかった。古代の、石を抱えて埋葬された屈葬を見ても
わかるように、死霊がさまよい出ないための仕掛けもある。日本では、死後間もない霊は不浄であり、
時間が経つにつれて浄化され、やがて子孫を守る祖霊となるという考えがある。死後しばらくは、遺体と
共にじっとしていろ、というわけだ。菅原道真や将門のように、祟りを怖れられる存在ともなれば、霊の
封印ではなく、丁重に祀ることで祟りの回避がはかられたのである。

 いずれ墓は冷凍カプセルに?

日本の墓といえば、まず頭の平らな方柱状石塔が思い浮かぶ。ところが、あれはけっして伝統的な
様式でもなく、江戸時代後期から出てきた流行(はや)りのようだ。墓も時代によって流行がある。墓は
どんなスタイルでもいいのであり、墓石もピラミッド型にしたって悪くはない。どうせ霊魂は墓に眠って
なんかいなくて、「千の風になって」いるのだろうから。
となると、こんな疑問がわいてくる。発達した未来の医療技術によって蘇生してもらおうということで、
遺体を冷凍保存するサービスが米国にはある。これも一種の墓なのかもしれない。しかし、一体この
遺体の霊魂はどうなるのだろう? 遺体と一緒に冷凍保存されるのだろうか。
まさに霊凍保存。
それともいったん風になって、蘇生したときにまた戻ってくるのか。
あるいはちゃっかり転生して、その未来の頭脳で蘇生術を完成し、冷凍保存の前世の自分を蘇生
させるというような、アンビリーバボーな展開もあるかもしれない。もっともそうなったときには、老いた
元の体になんか戻りたくはない気もするが。

シャカは肉体こそ墓だと思っていた?

自分で書いておきながら、冷凍カプセルに、なんていう話はすっかり忘れていました。
なるほど、霊凍保存か。
それにしても、魂が転生している未来で、かつての肉体が蘇生したとき、自分は同時に2つの体で共存
できるのでしょうか?
現代の自分が、過去や未来の自分へ会いに行ったらどうなるのか、といったタイムパラドックスに似た
難問です。

問題は、このとき魂はどうなるのかということです。アメリカの冷凍保存サービスは、全身まるごとだと
思いがちですが、なかには脳、あるいは頭部だけ切り離して保存するという方法もあります。そんな状態で、
魂以前に意識がよみがえりでもしたら、はたして精神は正気でいられるのでしょうか? 閉所恐怖症の
私としては、究極の閉所なので、考えるだけで発狂しそうです。

キリスト教では埋葬された死者はいずれみな復活する

冷凍カプセルでいずれよみがえるというのは、必ずしもSF的な発想ではありません。
そもそもキリスト教では、お墓に入っている死者は、復活の日にやがてみな肉体的によみがえるという
考えをもっています。
朽ちた遺体がそのまま、きれいな体になってよみがえるというのはメルヘンですが、その遺伝子を
培養して作りなおすというなら科学です。

日本人が遺骨に執着するのと同じく、アメリカ人は外地での戦死者を、どんなに傷ついた遺体でも、
できるだけの努力をして母国に持ち帰ります。遺族のためではあるでしょうが、それも、復活を見据えた
信仰に由来していのかもしれません。
それからすると、肉体をただの魂の入れ物の物体として、なんらの執着もしないシャカの宇宙観のほうが
私にはしっくりきます。とにかく、シャカは、死後、肉体から抜け出した魂がまたこの世の肉体に宿るという
輪廻転生からの解脱を説いていたのですから。
現世否定の、いわば究極のマイナス思考ですが、そっちのほうが粋だと思います。
シャカにとって、この肉体こそ自由な魂が埋もれてしまっている墓だと思っていたのかもしれません。

供養式成功法

この世は「顛倒(てんどう)夢想」のスクリーンである――。
そんなふうにして、この世も自分自身も、客観的に眺めるこころの姿勢が、潜在意識に潜り込んで
この世のビジョンを都合よく変える、意識の力となります。
愛するものの死に、人は世の無常を知って嘆きます。
せめてその形骸だけは永く遺してやろうという無常への抵抗で、人はミイラを作ったり、墓を建てたり
するのかもしれません。
が、その無常観こそ、裏を返せば成功法の極意に通じるのです。

現実は、けっしてシナリオがかっちりと固定され、ハードディスクに焼き付けられた3Dビジョンでは
ありません。空間だけではなく時間もそう。過去から未来へ流れるだけではなく、現代が未来を追い
越してしまうタイムパラドックスだってありえます。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし」

無常を説く方丈記の有名な出だしです。淀みに浮かぶ泡は、一方では消え、一方では生まれ、
一瞬も留まっていない幻です。とはいえ、水の流れは現実であって、船を浮かべて楽しむことさえ
できるのです。みな流れていて、確固としたものは何もないのですが、固い氷でないぶん形も自由に
操れます。

どうせ墓参りに行くなら、成功法の極意がそこにあると意識して向かいましょう。
家では、もし信仰があるなら、その神仏をイメージして意識を集中させます。
それが供養式成功法です。
どうしてもそれができなければ、あるいはもっと簡単に精神を集中させてアカシャエネルギーと共振
させたいのなら、ヒーラーズラボには、それを補助する物理的な装置が用意されています。
ぜひ活用してください。

お墓と成功法(1)

墓は作るなとシャカはいった

前回は『先祖供養の効能はホントにあるのか?』という話でした。
そういえば以前、ある雑誌の連載コラムに「お墓」を話題にしたことがあるのですが、
それをそっくりここで紹介させてもらうことにします。
自分で書いておきながら、すっかり忘れていました。

そこには――、世界には墓をつくらない民族もあるが、日本人は墓参りが好きな民族
だということ、墓石のデザインにも流行があり、いまの「方柱状石塔」は、江戸時代後半
に始まったものだ――などという雑学が披露されています。

お墓というと仏教だとすぐに連想するでしょうが、お釈迦さん自身は、とにかく修行して、
自分自身がブッダになれということを、口を酸っぱくして説いていた人なので、墓なんて
まったく意に介していないです。
お釈迦さんは、本当に、人間の肉体はただの魂の入れ物だという考えだったんですね。
遺体や遺骨が墓に埋葬されようがされまいが、魂の行く末は肉体を持っていたときの
生前の修行によるものだという考えでした。

ところが、自分が死んでも墓なんて作らなくていいというのに、遺骨が仏塔(ストゥーパ)に
祀(まつ)られて、仏舎利として信仰の対象となり、その仏塔は日本にまで建立されるように
なってしまいます。

宇宙に撒かれ地球に落ちる流れ星になりたい

私も散骨で十分だと思っています。できればロケットで重力圏外に飛ばされて、
一周忌ごろ地球に落下すればいいと考えます。
で、流れ星となって長い光跡を引くわけです。
その夜空の光芒が、病床の少女の目にとまるんですね。
「ああ、お星さま、こんどのクリスマスは元気で迎えられますように」
と、そんな祈りを叶える星になると。
なんていうなら理想中の理想です。
なんだか、オー・ヘンリーの小説にでもありそうな話ですが。
まあ、いうだけただですね。

墓の功徳

ただ、お墓や墓苑というのは、僧侶の供養とセットになって既得権益になっているので、
墓を建てることの功徳の宣伝は廃れないでしょう。

いや、功徳にはなると思います。
しかし、それは建立自体にあるのではなく、あくまで冥福を祈る人の「集中された祈念」
にあるのだということです。
功徳があるとするなら、死者の魂の冥福を祈るその「こころ」にあるわけですね。

ああ、カネがかかるなあ、こんなモノ建てることに何の意味があるのか、なんていう否定的な
思いで建てるなら、功徳、すなわち見返りも少ないでしょう。
もし墓参りで、祖先のおみたまにお願いごとをして、それが叶えられたとしたら、
それは霊界からの他力(助力)というよりは、自分の自力の思念が引き寄せたのだと
いうことです。

かりにもし、先祖が常日頃下界の祖先を守っていてくれているというなら、いままで
ご先祖さんは、どうして助けてくれなかったのか?
不慮の事故で亡くなる人もいれば、悪人にだまされて借金地獄に陥っている人もいます。
難病の子供もいます。善良な人間なのに、世の中には不運続きな人がたくさんいます。
先祖のいない子供は誰もいません。もし霊界から先祖が必ず子孫を守ってくれている
のだとしたら、この世に悲惨な出来事など起こらないはずです。

それなのに、この世は不幸が量産されています。
やはり、助けてください! という声の大きさ、潜在意識まで動員した思念の強さが、この世の
背後にある霊界の扉をノックしたのだと考えざるをえないのです。
「叩けよ、さらば開かれん」ですね。

成功を呼ぶお墓のカタチ

とはいえ、お墓がもし大きなピラミッドだったら、その前で祈る人の思念が増幅されて、
霊界へ届く祈りの力が大きくなるのかもしれません。

ピラミッドパワーというのは、たしかにあります。
ピラミッドパワーは、カタチが生み出すパワーの好例です。
あの正四角錐が、アカシャエネルギーとよく共振して、空間からエネルギーを汲み出すのです。
あのギザの、本家本元の巨大ピラミッドは、王の魂が冥界で豊かに暮らせるための、
魂強化の装置だということですが、何か別の効果や思惑があったのかもしれません。

日本の五輪塔は、そういうカタチのパワーを念頭においた墓の形状の1つです。
信長や信玄など、名だたる戦国大名の多くが、この五輪塔の墓石に祀られています。

成功を呼ぶ祈りの装置――「祈りの塔」を開発した

もし、墓の形状が、そのカタチによってパワーを発揮するのだとしたら、アカシャエネルギーと
よく共振する装置を作ればいいのではないか?
という発想は当然出てくるでしょう。
だとしたら、先祖の冥福を祈る装置として、すなわち自身の祈りの拡大装置として、
それは墓ではなく自宅に設置してもいいはずです。

先祖を祀る装置としては、墓のほかに戒名を祀る仏壇があります。
本来仏壇とは、本尊を祀ったもので、在家宅に設置された仏教の礼拝施設ですが、
一般家庭では先祖や家族の位牌を安置する設備(小祠)となっています。
信心深い日本人は、日々仏壇に供物を捧げ、その前で手を合わせます。
読経する人もいるでしょう。

仏壇はそもそも礼拝施設なんですね。
礼拝は、神仏などの霊的存在に対して、伏し拝むことをいいます。
それ(礼拝)は、へりくだったそのポーズをすることで、神仏への帰依を訴え、加護をいただこう
というものではありません。
あくまで、貴い存在を思い描くことで、思念を集中させて、祈念の現実化力を高めるための
瞑想導入の、身口意のポージングなのです。
その意味で、礼拝は精神集中をするためのものであり、仏壇は精神集中装置だとみなすのが
妥当です。

だとするなら、仏壇のかわりに、礼拝や祈念、瞑想をするときの思念増幅のための物理的装置
があってもいいだろうというのは、ごく自然な発想です。
わかりやすくいえば、脳波誘導のヘッドギヤみたいなものです。
じつをいうと、ヒーラーズラボはそういう装置をすでに作っているのです。
とはいえ、さすがにそれはヘッドギヤではありません。
信心はあっても、都会では仏壇がない家庭もあります。
そういう人たちのための祈りの増幅装置――「祈りの塔」です。

さて、コラムを紹介するつもりだったのですが、前置きが長くなってしまったので、
それは回を改めて掲載することにします。

先祖供養の効能はホントにあるのか?

供養は成功法である

世の成功者に、一番手っ取り早い成功法は何か? と尋ねて、多く返ってくる
答えに先祖供養があります。
先祖供養?
成功法に関心のある人でも、霊的存在を否定している人はまず拒絶反応を起こす
でしょう。

それはわかります。とはいえ、成功者や大手企業のトップが成功の秘訣は何かと
尋ねられると、ほとんどの人が自分は運がよかったと答え、またそのなかの多く
が先祖供養を欠かさないと語ります。
たしかに、たとえば代々続いている老舗などでは、まず先祖供養は、伝統の祭り
のように、どこでもごく当然のごとく継承されていることでしょう。
また、強運のたまもののような芸能人なども伝統的に神仏を畏敬し、験(げん)を
担いだりする体質ですから、目に見えない先祖のお御霊(みたま)に感謝し、供養を
心がけているという人の割合は多いでしょう。

ただし、これだけでは、成功と先祖供養の因果関係が明らかになったわけでは
ありません。先祖供養をやっていなくても、成功している人はたくさんいますから。
つまり、先祖供養が成功を生んでいるというよりは、成功している人は、もともと
先祖供養を重んじる背景を持つ確率が高いということになります。
逆に、貧困層は、先祖供養などやっている余裕がないという確率が高いはず。
東大生は、親が高収入の確率が高いというのは統計的な事実ですが、
かといって、けっして貧困家庭から東大生が出ないわけではありません。
統計の取り方をきちんとしないと、科学的なグラフは描けませんね。

供養効果の事実はある

しかしながら、何事もうまくゆかず、八方塞がりなときに、墓参りをしてから
急に風向きが変わって、窮地が救われたという話がけっこうあるのです。
これはすべて偶然なのでしょうか。

先祖供養をすることで救われる、なんらかの見返りがある、という考えは、
一般的にご先祖様へ祈念することで、その方々からサポートをしてもらえる
という考えです。
この世の図式でいえば、政治家に陳情するというようなものでしょうか。
あの世の霊的ネットワークに働きかけて、この世に介入してもらうというわけです。

無縁仏を供養して大成功した

実をいうと、見返りのある供養というのは、あの世の先祖(血筋)や縁者だけが
対象になるのではありません。霊的存在なら何でもいいのです。

私の友人に、ある食品業界の三代目で、難しい開発を成功させた男がいます。
その業界で初めて、まず無理だといわれていた製法を独自に開発し、一般消費者
にまで大きなブームを引き起こしたのです。
日経の一面を飾り、TVだけで30回は出たそうです。私も朝の経済ニュースを
眺めていて、突然彼が出てきて、飲んでいたコーヒーを噴いたことがあります。
彼がその開発に難儀していた頃、たまたまある霊能者と縁があって、工場の敷地の
外れに無縁仏の遺骨が沢山埋まっているから、それを供養してあげてください、
そうすれば大きな功徳になりますよ、といわれ、その言葉どおり実行したら、
その後まもなく開発が成功し、大成果を収めたというのです。

開発の機が熟していた時期と、たまたま重なっただけなのかもしれませんが、
彼自身霊感のある人間なので、あの開発が成功して製品が売れまくったのも
そのおかげ、すなわち霊的功徳によるものだといまだに信じています。
「情けは人のためならず」をもじれば――、
「供養は霊のためならず、おのれの福運のためにあり」ということになりますね。

目に見えないものへの供養こそ見返りは大きい

供養というのは、死者の冥福を祈って法会を営むことをいいます。
ふつう、死者が対象です(追善供養)。
この世界の生きている人、とくに有力者に貢物をすれば、何かと利便をはかって
もらえる機会は増えるでしょう。現実世界での供物(貢物)は、賄賂が端的な例で
あるように、現実的な効果があります。

それでは、死者を供養して、この現実世界の自分にどうしてよい影響を生む
ことになるのか? です。
まあ、霊的世界を迷信だという人には、とても理解できない話でしょうが。

命(イノチ)は、目に見える存在だけではないんですね。
どんな形態でも、他のイノチを利すれば、自分の利となって返ってくるという
のが、この世とあの世の宇宙の法則なんです。「情けは人のためならず、回り
まわって自分の徳(得)となる」です。
それにまた、その対象が小さく貧しいものほど、陰徳であればあるほど、逆に
見返りは大きいのです。貧しいものにこそ神は宿る、と思って損はありません。

もし無縁仏を供養して、そのおみたまが救われたとするなら、その恩に報いる
ために応援してくれるということもあるでしょうし、そんなふうに救われた霊からの
直接の応援が得られないとしても、「情けは人のためならず」の法則どおり、
福徳を得られるからです。もちろん、福徳は福運になります。
先祖には、浮かばれないおみたま(イノチ)がたくさんいます。
この世で捧げる灯明は、あの世の道を照らす光にもなるのです。
利己の近道は利他なんです。
利己と利他は、メビウスの輪のようにつながっています。

霊的加護を抜きにして供養の効能を考える

いや、そんな話は信じられないというなら、霊的な存在を抜きにして考えてみます。
つまり、もし供養する霊的対象からの見返りも、他人(霊的存在を含めて)を救えば、
自分が救われるという宇宙の法則もないのだとしたら、それどころか霊すらないのだ
というなら、ほかに何がどう作用しているのか? ということを考えます。
たとえば墓参りには、霊的な話を抜きにして、それが幸運をもたらすどんな働きが
あるのか、です。

精神集中は実に難しい

前に、成功法の極意は祈りだ、という話をしました。
レンズが太陽光を集めて紙を燃やすように、意識を集中し、祈りの念が極度に
収斂されたとき、その祈りは実現化されるというのが成功法の極意です。
――と簡単にいっても、その精神集中が難しかったのでした。

だいたい、人の意識というものは、同じことをずっと考えることはできない仕組み
になっています。ちょっと試してみればわかります。
たとえば、花のことを考えろといわれて、心に任意の花を思い浮かべても、
3分もすれば別のことを考えていることに気づくでしょう。チータのダッシュ
みたいなもので、持続力に欠けるのです。

先祖供養は祈りの集中化をはかるカタチ(舞台)である

その精神集中を助けるのが、身口意のカタだという話をしました。
心身をカタにはめれば、精神も集中しやすくなります。
雑然とした日常生活の家のなかで祈るより、ステンドグラスの荘厳な殿堂や
清浄な境内の神殿で祈るほうが、舞台効果で自己催眠をかけやすくなるものです。
瞑想をするとき、ホトケを念じよ、といわれても抽象的なホトケを心に描くのは
困難です。だから仏像や仏画があるのです。具体的な像を目に焼き付ければ祈念
しやすくなります。

墓参りというのは、一種のイベントであって、その前日から意識がそちらへ
向かっています。
何時に電車に乗って、どこそこでお供えを買って、時間をかけて歩いて、墓石を
浄め、花や線香を立て、そこでやっと墓前に佇んで、おもむろに手を合わせます。
手を合わせる前の一連の行動から祈りは始まっているのです。
遠い先祖なら顔も浮かばないでしょうが、身近だったお祖父ちゃん、お祖母ちゃん
なら顔を思い浮かべます。祈念はより具体的になり、そのぶん集中されます。

花や香や水(閼伽)を捧げるのが大事なのではなく、それらのモノは、精神を
集中させるための小道具なのです。向き合う墓石も、供物を買うための労働も。
面倒な労働も精神を集中させるための小道具だと考えればいいのです。
何もない空へ向かって祈るより、地平線から上ってくる太陽へ向かうほうが
祈りやすいものです。

極度に集中された念は物質化される

切羽詰まった祈りほど、念は集中されます。
たとえば、車にはねられても、かすり傷ひとつおわないで助かったという例が多々
あります。
「危ない!」
と人が思ったとき、意識は凝縮されます。その凝縮された念が、瞬間的に自分の体を
コントロールしたか、あるいは瞬時に潜在意識の奥まで潜って、この世の3D世界を
操作したかです。

念を極限まで集中させたとき、たんにお願いするだけではなく、イエスの成功法の
極意の祈りをするのです。
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおり
になります――」
あの実践です。

神仏や先祖に向かって祈るカタチにはなっていますが、その力を頼りにする
のではなく、頼るのは自分の祈りの力なのであって、これはあくまで自力、
もはや他力ではありません。
その自力のパワーをより高めるための舞台装置が、供養のカタチなのです。
そう思えば、供養なんて、と思う人や、他力を嫌う人にとっても有効になります。
どうせ、この世で社会生活を営んでいくかぎり、そのような儀式は欠かせない
のですから。うまく利用しましょう。